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生き方

パラリンピックからの贈りもの

平山譲(作家)

2012年08月23日 公開 2022年05月25日 更新

――スポーツには、よろこびがある。

身体を自在に動かせたときの爽快感はもちろん、目標をもてること、成長できること、協力しあえることのよろこびは、人を明日へと向わせる生きがいになる。

生まれながらにして、もしくは疾患や事故で、過酷な条件をつきつけられ、生きづらさを感じている人々がいる。底知れぬ孤独感、不安感、虚無感にさいなまれ、立ちつくし、蹲っている人々がいる。

これは、そんな状況の中でも自らと向き合い、スポーツを通して生きる強さを取り戻していった人々の闘いの過程である。

※本稿は、平山譲 著『パラリンピックからの贈りもの』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

スポーツに出会い、パラリンピックという「可能性」に挑んだ人々の実話

本書『パラリンピックからの贈り物』は、マイノリティの努力や、それによってもたらされた結果について伝えようとしたものではない。ここかしこにいる、あたりまえの人間が、耐えがたい苦しみや悲しみに直面しながらも、精神世界で自分自身と闘いゆくその過程。

この進化した社会がつくりだした、スポーツという、パラリンピックという機会に挑んでゆき、もういちど、新たな一歩を踏みだしてゆく、心のありさまを探求した記録である。

平成20年から執筆してきた連作短編6作品と、新たに書きおこした1作品が、本書には収められている。

これらを書きおえることができたのは、多くの方々のご助力による。取材に応じていただいたすべての方々に、心から御礼申しあげたい。ありがとうございました。

 

スポーツには、よろこびがある。

第二次世界大戦が終結した3年後の夏、昭和23年7月29日、イギリスのロンドンにて第14回夏季オリンピックが開幕した。

同じ日、ストーク・マンデビル病院の院内で、車椅子を利用する入院患者によるアーチェリー大会が開催された。

アーチェリー大会に参加したのは、男子14名、女子2名の入院患者だったとされる。

世界規模のスポーツの祭典が始まった同じ日に、ささやかながらスポーツができた入院患者たちのよろこびは、どれほどのものだっただろうか。

世界で初めて行われた障害がある人々によるスポーツ大会から64年後の今夏、イギリスのロンドンにて、パラリンピックと名を変えた大会が開催される。

パラリンピックには、約4200名の選手たちが参加する。そこを目指す者や、そこに憧れる者まで含めると、どれだけの人々がスポーツと接する可能性を得ているかはかりしれない。

辛苦の日々から立ちあがり、スポーツに挑もうとするすべての人々にはもたらされている。未来へと一歩を踏みだしてゆくときに欠かせない、希望という、パラリンピックからの贈りもの。

 

――本書には、悲しみや苦しみのどん底から、もう一度、夢を見つけた7人の挑戦が取り上げられています。その種目は、陸上競技、水泳、シッティングバレーボール、ボッチャ、ブラインドサッカー、スキー、シンクロナイズドスイミング。

ここでは、シッティングバレーボールに挑戦している竹田賢仁さんの物語「トスの人」から、その一節をお届けします。

 

トスの人

「スポーツは結果がすべて、といいますけど、でも、僕らにとっては、すべてじゃない。僕らに大切なのは、そのアタックが決まるかどうか、その試合が勝てるかどうか、それだけじゃない。

春の高校バレーで純粋な高校生たちが見せてくれる、必死でがむしゃらなプレーが、僕らは好きなんです。どんなボールにでも飛びこんでいくような気持を忘れたくない。どんな強敵にも向かっていく気持を忘れたくない。

それに、どんなときでも、笑顔で、大声を出して、チームメートを励ますことも。だって、僕らは、いろんな思いをして、ここまでやってきた、仲間じゃないですか」

シッティングバレーボールの日本代表が初めて出場した平成12年のシドニーパラリンピック、その戦績は9位だった。

水泳でバルセロナパラリンピックに出場した経験があった竹田賢仁だが、シドニーでは個人競技とは違った緊張感があった。大きな体育館で大観衆に見つめられ、コートにはスポットライトが当てられており、自分の名前がアナウンスされた。

ようやくこの大舞台に立てたこれまでの苦労や、仲間たちの頑張りを思うと、にわかに体が硬直しだした。第1セットの最初のプレー、彼は簡単なトスが上げられなかった。

大会前は、練習をかさねてきた自分たちのプレーができれば、世界を相手にしても戦えるだろうと信じていた。だが、地元オーストラリアにだけは勝てたものの、それ以外には全敗だった。なかでもヨーロッパ勢には、高さにまったく対抗できなかった。

シッティングバレーボールはバレーボールと異なり、サーブを直接ブロックしてもいい規則になっている。勝負どころで対戦相手に手痛いサーブブロックを決められた。どの試合も、惨敗というわけではなく、勝てそうな試合を落としてしまうことが多かった。勝てそうなのに勝てないというのも、それだけの実力でしかないのだと竹田は思った。

シドニーパラリンピック後、日本シッティングバレーボール協会の副会長に就任した竹田は、仲間とともに各地で教室や講座を開いたり、選手権や親善試合を開催したりして普及と強化に努めた。

わずか5名だった東京プラネッツは、10名以上が所属する組織になったし、他にも全国に15チームが発足した。競技人口は300人余りにまで増加し、選手層も厚くなった。

日本選手権では、平成15年までの7年間こそ東京プラネッツと広島ストーンズの2チームで優勝争いをしていたものの、平成16年と18年には、京都と千葉の新興チームが初栄冠を勝ちえるまでに成長した。

日本代表チームとしては、オランダへ海外遠征合宿も敢行し、ヨーロッパ勢の高さへの対策に躍起になった。

しかし、地道な普及と強化活動にもかかわらず、日本代表チームの世界での敗退はつづいた。パラリンピックにおいて、個人競技では、メダリストや入賞者が多数輩出されていた。

だが、団体競技となると、車椅子バスケットボールやウィルチェアーラグビー、そしてシッティングバレーボールは、メダルや入賞はおろか、「出場することに意義がある」という域を出られずにいた。

平成14年のエジプト世界選手権では、前回のシドニーパラリンピックの順位を1つだけ上まわる8位がやっとだった。

選考会で日本代表に選出されることが簡単ではなくなっていたし、新戦力が加わったことで不可能だったプレーにも挑戦できるようになっていた。自分たちが成長している実感が竹田にもあったものの、しかし強豪国の実力は、彼ら以上に伸びていた。

日本はセッターを2人置く従来どおりの布陣だったが、ワンセッター・スリーアタッカーという斬新で攻撃的な戦術を採用するチームが増えた。セッターの動きが迅速になり、守備範囲が広がったことで、3人を攻撃に割けるようになった。

シドニーパラリンピックからわずか2年なのに、日本は惨敗する試合が多くなり、歴然たる彼我の差を竹田は痛感させられた。

それでも、平成16年に行われたアテネパラリンピックでは、順位決定トーナメント戦に勝てば、目標としてきた入賞というところまでこぎつけた。

その大一番となったアメリカ戦で、竹田はベンチにいた。

アテネにまで来ていながら控えにまわされたことに不満をもっている選手もいたが、竹田は違った。チームが勝つことさえできれば、先発も控えも関係ないと思っていた。

このチームで自分ができることはなにかをいつも考え、ときにはベンチから大声を出したり、選手たちの怪我の手当を手伝ったりした。その姿勢は、事故後にバスケットボール部に戻った大学時代と同じだった。

アメリカ戦は、実力伯仲の激闘となった。

第1セット、第3セットは日本が取り、第2セット、第4セットはアメリカに取られた。

そして、迎えたフルセット目は、12対14とアメリカがリードしていた。

アメリカのゲームポイントとなったその瀬戸際で、日本ベンチから選手交代が告げられた。

ピンチサーバーに指名されたのは、それまでベンチを温めてきた竹田だった。

サーブをコート外にはずしてしまったり、相手にサーブブロックを許したりすれば、その時点でパラリンピック敗退が決まる。

試合後、なぜ、あんな場面で緊張しないのかと仲間から問われた。

「なにいってんだよ」

竹田は答えた。

「このときのために、ここまで、どれだけ、練習してきたと思ってんだよ」

先発ではなく、控えのピンチサーバーにまわってくれと監督に告げられた日から、徹底してサーブ練習をしてきた。シッティングバレーボールのサーブには、エースを狙う「攻撃的サーブ」と、確実に入れにいく「守備的サーブ」の2種類がある。だが、竹田は、もう1種類のサーブを練習してきた。

1点奪われればゲームセットのこの局面、監督からは守備的サーブを指示された。シッティングバレーボールとバレーボールを比べたとき、サーブはシッティングバレーボールのほうがはるかに難しいとされる。

コートが狭いため、山なりに打てばアウトになりやすく、レシーブされることも多くなる。かといって、ネットが低いため、低く打てば相手にサーブブロックを決められてしまう。

ベンチで戦況を見守っていた竹田は、相手チーム内でサーブレシーブが得意ではない「穴」をずっと探していた。そして、守備的でも、攻撃的でもない、もう1種類のサーブを打とうと決めていた。

このときのために、ここまで、どれだけ、練習してきたかわからないサーブを、1人の相手選手だけをめがけて打った。

彼が打ったのは、確実に入れながらも、エースを狙う、最高のサーブだった。

 

平山 譲
(ひらやま・ゆずる)

1968年東京都生まれ。ノンフィクションや、実話を基にした小説を数多く手掛け、近年続けて映画化、ドラマ化される。文芸・小説誌、新関、スポーツ誌での連載の他、映画脚本、ノンフィクション、エッセイなど執筆は多岐に渡る。
主な著作に、『ありがとう』(講談社文庫・2006年東映系にて全国ロードショー)、『ファイブ』(幻冬舎文庫・2008年NHKにてドラマ化)、『サッカーボールの音が聞こえる』 『4アウト』(ともに新潮社)、『片翼チャンピオン』(講談社)、『魂の箱』(幻冬舎文庫)、『リカバリーショット』(幻冬舎)、『野球からの贈りもの』(PHP研究所)などがある。

 

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