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和田秀樹さんが、高齢医療に携わって目撃した「老後に後悔する人」

和田秀樹(精神科医)

2024年07月01日 公開 2024年12月16日 更新

人生の後半に入った時、私たちは自分の人生を振り返って、後悔や不安を感じることがあります。人生に悔いを残さないために必要なこととは? 精神科医の和田秀樹さんによる書籍『本当の人生』(PHP研究所)より、自身の経験を交えながら、「自己決定」を行う大切さについて紹介します。

※本稿は、和田秀樹著『本当の人生』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

十分な情報を集め、本当の自分の声に従って自己決定したほうが悔いがない

高齢者専門の医者、とくに精神科の医者をやっていると、死ぬ間際に、あるいはだんだん死のフェーズに入ってきたことを自覚したときに、いろいろと後悔の声を聞かせてくださる人がいます。

「あのとき、ケチケチせずに、もっとお金を使って行きたい旅行に行けばよかった」
「子どもの反対を押し切って、再婚しておけばよかった」
「医者の言うことを聞いて、いろいろとがまんしたけど、結局、死ぬときは死ぬんだな」
「子どもの面倒をずっと見てきた後、親の介護で私の人生はなんだったのだろう?」
といった感じです。

私が、定年後とか引退後、子どもの手が離れた後、本当の自分に戻って、本当の人生を送ったほうがいいと申し上げているのは、そういう悔いを数多く見聞きしているからといっても過言ではないでしょう。

もちろん、人間、すべてが思い通りになるわけではないので、まったく悔いがない人生というのはほとんどあり得ないこととは思いますが、自己決定をしなかったりそれを実行しなかったりして残る悔いは大きいように思います。

つまり、お金がなかったからピラミッドを見に行けずに死ぬというのも、もちろん悔いなのでしょうが、本当は行くお金も時間もあったのに、お金を惜しんでしまったとか、自分には贅沢だ(これも「偽りの自己」の声のような気がします)と思って行かなかった、だけど本当は見に行きたかったという場合は、かなりの悔いになるのではないでしょうか?

間違った自己決定についてもそうでしょう。

子どもに嫌われたくないと思って再婚をあきらめたのに、子どもが結局、自分のことを大して看てくれなかったとか、その後の人生が味気なかったということもあるでしょう。少しでも長生きしたいと思って、食べたいものも飲みたい酒もがまんし、禁煙もしたのに、末期がんが見つかったというようなケースも珍しくありません。

自己決定が間違っていた(と思える)場合、自分がバカだったと後悔するので、よけいにみじめになりやすいのはわかります。

私がいろいろな本を書くのも、自分の情報が絶対に正しいと言うつもりはなく、私なりに多くの高齢者を見てきて得た情報を、なるべく多くの人に知ってほしいからです。そうすることで自己決定をする際に、少しでも多くの情報を持ったうえで、それを実行してほしいからです。

知らぬが仏と言いますが、確かにがん検診やいろいろな検診をしないことで、自分には病気がないと思っているほうが余計な治療を受けず、QOL(生活の質)がかえって上がることは老人医療を行っているとよくわかります。まさに、知らぬが仏です。

その一方で、たとえば自分が要介護になったときに、介護保険を受ければどのくらいのサービスが受けられて費用はどのくらいかを知っているだけで、要介護になったときのために大して金を貯めておかなくても平気なのだということを知っていれば、元気なうちにもっと楽しむことにお金を使えることがわかります。この場合、「知らぬが地獄」ということもあるでしょう。

そして、経験的に言うと(自分が経験してきたわけではありませんが、高齢者をたくさん見てきた経験から)、本当の自分の声や本当の自分の欲望に従ったほうが、悔いのない自己決定ができることが多い、少なくとも周囲や世間や医者の声に従って妥協的な自己決定をするより、悔いがないことが多いということは断言していいかと思います。

 

自己決定はその場その場で変えてもいい

ということで、十分な情報を集め、本当の自分の声に従った自己決定をしたほうが、充実した、悔いの少ない(ないとまでは言いませんが)本当の人生が送れると私は信じているわけですが、ここで意外に重要になるのは、そういう自己決定は最終決定ではないし、いつでも変えていいということです。

「タバコをやめる」と宣言した人が長続きしないとバカにされたり、自己嫌悪に陥ったりすることが多いようですが、健康のための自己決定を撤回したと考えればいいのです。

一度決めた自己決定というのは、その後の状況の変化で変えざるを得ないことは、とくに高齢になると珍しくない話です。

たとえば、人に頼らず、好き放題生きるという自己決定をして、本当の人生を歩んでいた人が、脳梗塞か何かで半身不随になって、介護に頼らざるを得なくなることもあるでしょう。

もちろん、介護保険を自分が納めてきて、その認定された限度額を使うのであれば、人に頼っているわけでなく当然の権利を行使しただけだという解釈もできますが、一度、「お前らに頼らない」と宣言した相手に泣きつかないといけないこともあるでしょう。

家族を捨てて孤独と放埓を選んでも、さびしくなったり、むなしくなったりして、また家族のもとに戻る(子どもはともかくとして、配偶者が受け入れてくれるかどうかはかなり不確かですが)ということもあるでしょう。

私にしても、糖尿病治療で医者の言うことを聞かず、好きなものを食べ、なるべく薬やインスリンを使わないという自己決定をしているわけですが、半年に一度眼底の検査をし、3か月に一度腎機能の検査を、さらに3〜5年に一度、冠動脈の検査をしています。

高めの血糖値でコントロールすることで、頭も冴えているし、仕事もしっかりできるし、食べたいものを食べ、大好きなワインも飲んでいるので、あまりストレスのない生活ができているのですが、もしこれらの検査で異常が見つかり、このままだと目が見えなくなるとか、透析を受けないといけないという話になれば、方針変更をする可能性が大です。

目が見えなくなるよりましなので、血糖値をもう少し下げるとか、薬を飲むとか、美食はするにしても量を減らし、食事時間も早い時間へ切り替えるとか、新しい自己決定をするということです。

延命治療は一切拒否するという自己決定が盛んに勧められていますし、その自己決定をして尊厳死を選ばれる方も少なくないようですが、人間というのは不思議なもので、寝たきりになったり、死にかけたりすると、もっと生きていたいという感覚が生じてくる人も案外いるものです。というか、そのほうが多いような印象を受けています。

そういう場合、「お前は尊厳死と言っていたから無駄な点滴はしない」と言うのは、ちょっと残酷な気がします。

その場合、尊厳死という自己決定は撤回してもいい、というのが私の考え方です。本当の人生というのは、自分の本音だから、一回決めたら変わらないというものではなくて、その場、その場の本音ということなのかもしれません。

税金が高いのが嫌で、日本を脱出する大金持ちがかなりいます。これは日本にとっていいこととは言えませんが、実は音を上げて帰国する人がかなりいるようです。私の周りでも数人います。

日本の普通の食べ物が恋しくなったり、四季の移り変わりがないのが嫌になるとか、治安の悪さが嫌になるとかいろいろと理由はあるようですが、意思が弱いというより、本当の自分の欲求がわかったということなのではないかと思います。多少、税金を払っても富裕層でいられることには変わりないのですから、新しい自己決定をしたのでしょう。

 

本当の自分に従う

日本人は真面目な人が多いので、一度決めたことは守らないといけないとか、変節はいけないと思う傾向があるようですが、本当の自分というのは、おそらくはいい加減なものです。コロコロ変わっていいし、コロコロ変わるものなのでしょう。

一度決めた「自己決定」や「本当の人生」というのは、変えてはいけないものではないし、歳を重ね、情報が増え、経験を積み、あるいは自分の身体機能や脳機能や周囲の状況が変われば、むしろ変わるほうが自然なのです。もっとも、天職と思えるものを得てずっと変わらないのも問題ありません。

本当の自分に従うというのは、その場その場で生きたいように生きるということであって、一貫したものではないのです。

そして、本当の自己決定については、意地を張るべきではないと私は信じています。それによって、身近な人にあきれられたり、笑われたり、バカにされたりするかもしれませんが、人目の奴隷にならないのが本当の自分です。

もちろん、新しい自己決定がうまくいかないこともあるでしょう。そうなったらそうなったときのことで、別の自己決定をすればいいだけのことです。

日本は意外に福祉国家で、家族に見捨てられても、公的な支援(経済的なことであれ、物理的な介護であれ)で生きていくことはできます。それを知っているだけで、新たな自己決定の選択肢は増えます。そうして、残りの人生で何度も自分に合った自己決定をしていただければと思っています。

 

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