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Moguru(本の話)

連載小説「報復捜査」 第5回 安東能明

安東能明(小説家)

2026年09月30日 公開

殉職した公安部の刑事が追いかけていた事件に隠された真実とは!?

 

第5回

3

目が覚めたとき、天井が白かった。

寮の天井だ、と伊場(いば)はすぐに気づいた。それだけの余裕はあった。問題は、その先だった。昨夜横になったはずが、いつ眠ったのか覚えがない。夢は見なかった。夢も見られないほど深く落ちていたのか、それとも夢を見たが忘れたのか。

時計を見ると、午前六時四十分だった。

伊場は起き上がり、シャワーを浴びた。湯を頭から被りながら、昨日の監察の問答を反芻(はんすう)した。抑揚(よくよう)のない垣内(かきうち)の声が蘇る。問い続けたのは伊場の行動と判断だけで、小暮(こぐれ)の側の不可解さには、一度も触れなかった。なぜ単独取調だったのか。なぜ警報ボタンが鳴らなかったのか。なぜ公安の刑事が拳銃を持っていたのか。それらはすべて、問答の外に置かれたままだった。

シャワーを止める。

湿気を吸って重くなったグレーのコットンTシャツに、黒の綿パンツを履いた。

きょうから一週間、職務停止となる。

一階の食堂は、午前六時半に開く。

伊場が降りると、すでに数人が席についていた。吉祥寺署の同僚も何人かいる。テレビが朝のニュースを流している。音量は絞られていたが、昨日の事件の映像が流れているのが見えた。伊場は視線を逸らした。

盆に定食を載せて、端の席に座った。白飯、味噌汁、焼き鮭。どれも味がするのかどうか、わからなかった。噛んで飲み込む。

ふと、視線を感じた。

斜め向かいの席に、清川(きよかわ)がいた。伊場と目が合った瞬間、清川はすっと視線を外し、味噌汁に目を落とした。

その素振りが、引っかかった。

昨夜の霊安室の廊下でも同じだった。清川は何か知っているような感じで言いかけて、やめていた。

伊場は盆を持って立ち上がり、清川の隣の席に移った。

「清川」

つとめて小声で言った。清川は顔を上げず、箸を持ったまま固まった。

「昨夜は、すまなかった。急に訊いたりして」

「いえ、昨日は大変でしたね」

どこか他人ごとのように聞こえる。

「あまりニュースになっていないな」

「箝口令(かんこうれい)が出てますから」

それはそうだろう。

「おまえ、現場では屋上にいたか?」

「いえ、一階の警戒でした」

「銃撃は見てないか?」

「見てません。どうだったんですか?」

「驚いたよ、おれも」

言葉を濁した。

現場で起きたことを知る人間は少ないようだ。

「きょうは宿直だったな?」

伊場が話題を変えると、ようやく清川は目を合わせた。

「そうでした。忘れてました」

「その調子でいけよ。今晩は平穏だ」

清川はまんざらでもないという顔でうなずいた。

「でな、阿久津(あくつ)の件、最初は生安の取り調べだったろ」つい、伊場は口にしていた。「実際どこまで立件できる案件だった?」

「不法就労助長としては普通に悪質ですよ。中国人留学生を〝二十八時間超え〟で回してた。深夜帯も入ってたし」

「留学生も立件?」

「ケース次第です。ただ今回は、学生よりブローカーの阿久津が本丸でした」

「店側は?」

「店主は〝留学生とは知らなかった〟〝掛け持ちは知らなかった”で押し通してました」

「それで通るのか?」

「在留カード確認義務があるんで、完全には無理ですね。ただ、二十八時間超えを認識してたか、となると別です」

「実際は知ってた?」

清川は苦笑した。

「夜中まで働かせて、知らないわけないでしょう」

「つまり、そこまで大事件じゃない」

「ええ。店主も学生も、たぶん書類送検で終わりだったはずです。阿久津にしたって、せいぜい罰金刑だったでしょう。普通なら、こんな大騒ぎになるような件じゃない。阿久津が死んで、この件は処分保留で終わりです」

「摘発のきっかけは?」

「同業者のタレコミです。匿名で」

伊場は腕を組んだ。

「そんな軽微な案件に、どうして小暮」伊場は言葉を改めた。「ソトニが首を突っ込んできた?」

「公安って事大主義ですから、放っておけなかったんですよ」

「そんな程度か......」

「決まってるじゃないですか」

「調書を見たいな」

清川が一瞬、食堂を見回した。誰も、こちらを見ていない。

「いいですけど、うちの分だけですよ。外事のはないです」

「いいよ。できたら、留置人名簿と接見簿、それと看守日誌も」

「そんなもの見て、どうするんですか?」

「こっちはこれから一週間やることがない。それを見てせいぜい暇をつぶすさ」

清川が肩をすくめてうなずいた。

飯は、半分ほど残した。

午前九時過ぎ、伊場は官舎を出た。ふだんどおり、バスと徒歩で、九時半には吉祥寺署の裏口に立っていた。空は低く、雲が厚い。雨はまだ落ちていないが、遠からず来るだろう。半袖では少し肌寒かった。

警務課に電話を入れ、入船(いりふね)を呼び出した。入船は拳銃担当だ。相手はすぐ出た。

「伊場です。いま、署の裏口にいます。ちょっとだけ、来てもらえませんか。昨日の件で、ひとつだけ確認させてください」

電話の向こうで、入船が短く答えた。すぐ行きます。それだけだった。

三分後、裏口の扉が開いた。

入船光男(みつお)。三十代前半、警務課の拳銃管理担当。几帳面な男で、書類仕事が得意だという印象がある。顔色は悪かった。ファイルを携えている。

「伊場さん、職務停止中でしょう。自宅に戻ってください」

声が固い。言葉に気持ちがない。

「二分でいいから聞いてよ」

「困ります」

「小暮に拳銃を回したのは、あなたか」

入船の喉が動いた。周囲をうかがう目に、隠しきれない怯えがある。

「......小暮さんが警務課に来たのは、阿久津が逃げた直後です。通常の一時貸与の手続きを踏む時間なんて、ありませんでした。でも、これを見てください」

入船が差し出した貸与簿の承認欄に、曽我厚志(そがあつし)のサインが、掠れたボールペンで殴り書きされていた。

「副署長の直決です。署長の決裁は後回しでいい、おれが全責任を持つ、と。副署長が、直接そう指示されたんです」

「本部への照会も、上位者の複数承認も飛ばして、ですか」

「......非常時でした。被疑者が逃げて、人質を取った。一刻を争う、と。わたしは、拒めませんでした」

伊場はじっと書類を見た。拳銃の一時貸与は、通常、厳格な手続きを要する。本部への照会、上位者の複数承認、理由の明示。それが、副署長の一筆で完結している。

「小暮は、なんと言って申し出たんですか」

「......『被疑者を逃がしたのはわたしの責任です。現場に急行します。拳銃を貸与してください』と言ったそうです。副署長から直接聞きました」

急行、という言葉が耳に残った。

責任を取りに行く。それが、小暮の言い分だったのか。

「曽我副署長は小暮の事案について、気にかけていたんですか?」

入船の表情が、わずかに揺れた。言いたくない、という気配だった。伊場は黙って待った。

「......これは、わたしが直接見たわけじゃないですが」

「聞かせてください」

「阿久津の取り調べ中、何度か隣室に来てモニターを見ていたという話は聞きました」

伊場は、すぐには答えなかった。

副署長が、公安の取り調べを見ていた......。

「副署長がそう言ったんですか?」

「それは......」

入船は、首を横に振った。言い過ぎた、という顔だった。

「すみません。これ以上は。ほんとに、帰ってください」

入船は顔を強ばらせたまま、裏口の扉を押して中に入った。扉が閉まる寸前、一度だけ振り返って、何か言いたそうな目をした。しかし、言葉は出なかった。扉が閉まり、金属のラッチが噛む音がした。

伊場は、しばらくその場に立っていた。

副署長が取り調べを覗いていた。それは何を意味するのか。曽我は公安畑の人間ではないはずだ。それでも、逃走前から、阿久津の取り調べに関心を持っていた。公安の小暮が何を引き出しているか、確かめようとしていた。それとも、小暮を監視していた?

考えながら歩き出した。

吉祥寺署は五日市(いつかいち)街道ぞいにある武蔵野八幡宮の西隣にある。署から阿久津が逃走したと思われるルートをたどった。八幡宮交差点から吉祥寺通りを駅方向へ進んだ。コンビニとホテルに挟まれた路地を西にとる。五十メートルほどで四階建ての雑居ビルに行き着いた。一階には無機質なコインランドリーと、看板の剥(は)げかかった雀荘が入っている。排気ガスと湿気で黒ずんだコンクリート造の壁には、消費者金融や塾のポスターが隙間なく貼られていた。

二十四時間前、この薄汚れたビルの屋上で、小暮は死んだ。

吉祥寺通りの喧騒から離れて、沈んだ空気が流れている。錆(さ)びた非常階段が剥(む)き出しになったビル群の隙間で、六月の重い空がどんよりと濁っていた。

入口に貼られた立ち入り禁止のテープを見つめた。中には入らなかった。入る理由もない。ただ、ここに来ずにはいられなかった。

見上げると、屋上のフェンスが見えた。あの場所に、阿久津がいた。人質の女児がいた。小暮もいた。自分も。

伊場は、目を閉じた。

屋上のことを、また思い出した。小暮が射線上に現れた。「撃つな」と叫んだ。それから、銃を構えた。あの銃口が、自分に向いていた。本気だと思った。だから、撃った。

だが、本当に本気だったのか。

考えかけて、伊場は首を振った。考えたところで、何になる。撃ったのは自分だ。小暮は死んだ。それが、すべてだ。確かめる術(すべ)はもうない。

携帯を取り出しかけて、伊場は止まった。

昨日、自分は小暮を撃った。その手応えが、まだ右手のどこかに残っている気がした。圭子(けいこ)に、連絡しなければ。そう思いはした。だが、できなかった。どんな顔をして、何を言えばいいのか。あなたの夫を撃ったのはおれです。そう言うべきなのか。言えるはずがなかった。指が画面の上で止まったまま、動かなかった。

そのとき、携帯が震えた。

画面に「小暮圭子」と表示された。

伊場は息を止めた。

着信音が鳴り続ける。手のひらの中で、携帯が震え続ける。出るべきか。出て、何を言う。出ないという選択も頭をよぎった。だが、それはあまりに卑怯(ひきょう)だった。

三度目の震えで、伊場はこわごわ画面に触れた。

「......もしもし」

声がかすれた。

「伊場くん」

圭子の声は、思ったより落ち着いていた。それがかえって、伊場の胸を締めつけた。

「あの......会って話したいの。きょう、これから来てもらえる?」

伊場はすぐに答えられなかった。

心臓が激しく打っていた。会う。圭子と。夫を撃った男が、その妻と向き合う。耐えられるのか。

だが、断ることもできなかった。

「......わかりました」と、どうにか声を絞り出した。「これから行きます」

電話を切ったあとも、しばらく動けなかった。手のひらに汗がにじんでいた。

署に戻る道すがら、増井の携帯に電話をかけた。強行犯係の同僚だ。幸い、増井は署にいた。

「悪い、頼みがある。捜査用車の鍵を、裏口まで持ってきてくれないか」

電話の向こうで、増井が息を吐いた。

「伊場さん、職務停止中でしょ」

「私用だから」

「捜査車両は困りますよ。上に知れたら」

「黙っといてくれ」

また沈黙。それから、増井が「まったく」と言った。

十分後、裏口に増井(ますい)が現れた。迷惑この上ない、という顔で鍵を差し出した。

「無茶しないでくださいよ」

「ありがとう」

伊場は鍵を受け取り、管理札を見て、該当する車種を探した。シルバーのシルフィを見つけた。ガソリン残量を確かめてから署を出た。

武蔵野市西久保(にしくぼ)にある西窪(にしくぼ)住宅に住んでいる。車ならすぐだ。

〈つづく〉

著者紹介

安東能明(あんどう・よしあき)

小説家

1956年、静岡県生まれ。明治大学政経学部卒。浜松市役所勤務の傍ら、94年『死が舞い降りた』で日本推理サスペンス大賞優秀賞を受賞しデビュー。2000年『鬼子母神』でホラーサスペンス大賞特別賞、10年には「随監」で日本推理作家協会賞短編部門を受賞。緻密な取材が生む警察小説やサスペンス小説で多くのファンを魅了している。

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