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- 連載小説「報復捜査」 第5回 安東能明
殉職した公安部の刑事が追いかけていた事件に隠された真実とは!?
第5回
3
目が覚めたとき、天井が白かった。
寮の天井だ、と伊場(いば)はすぐに気づいた。それだけの余裕はあった。問題は、その先だった。昨夜横になったはずが、いつ眠ったのか覚えがない。夢は見なかった。夢も見られないほど深く落ちていたのか、それとも夢を見たが忘れたのか。
時計を見ると、午前六時四十分だった。
伊場は起き上がり、シャワーを浴びた。湯を頭から被りながら、昨日の監察の問答を反芻(はんすう)した。抑揚(よくよう)のない垣内(かきうち)の声が蘇る。問い続けたのは伊場の行動と判断だけで、小暮(こぐれ)の側の不可解さには、一度も触れなかった。なぜ単独取調だったのか。なぜ警報ボタンが鳴らなかったのか。なぜ公安の刑事が拳銃を持っていたのか。それらはすべて、問答の外に置かれたままだった。
シャワーを止める。
湿気を吸って重くなったグレーのコットンTシャツに、黒の綿パンツを履いた。
きょうから一週間、職務停止となる。
一階の食堂は、午前六時半に開く。
伊場が降りると、すでに数人が席についていた。吉祥寺署の同僚も何人かいる。テレビが朝のニュースを流している。音量は絞られていたが、昨日の事件の映像が流れているのが見えた。伊場は視線を逸らした。
盆に定食を載せて、端の席に座った。白飯、味噌汁、焼き鮭。どれも味がするのかどうか、わからなかった。噛んで飲み込む。
ふと、視線を感じた。
斜め向かいの席に、清川(きよかわ)がいた。伊場と目が合った瞬間、清川はすっと視線を外し、味噌汁に目を落とした。
その素振りが、引っかかった。
昨夜の霊安室の廊下でも同じだった。清川は何か知っているような感じで言いかけて、やめていた。
伊場は盆を持って立ち上がり、清川の隣の席に移った。
「清川」
つとめて小声で言った。清川は顔を上げず、箸を持ったまま固まった。
「昨夜は、すまなかった。急に訊いたりして」
「いえ、昨日は大変でしたね」
どこか他人ごとのように聞こえる。
「あまりニュースになっていないな」
「箝口令(かんこうれい)が出てますから」
それはそうだろう。
「おまえ、現場では屋上にいたか?」
「いえ、一階の警戒でした」
「銃撃は見てないか?」
「見てません。どうだったんですか?」
「驚いたよ、おれも」
言葉を濁した。
現場で起きたことを知る人間は少ないようだ。
「きょうは宿直だったな?」
伊場が話題を変えると、ようやく清川は目を合わせた。
「そうでした。忘れてました」
「その調子でいけよ。今晩は平穏だ」
清川はまんざらでもないという顔でうなずいた。
「でな、阿久津(あくつ)の件、最初は生安の取り調べだったろ」つい、伊場は口にしていた。「実際どこまで立件できる案件だった?」
「不法就労助長としては普通に悪質ですよ。中国人留学生を〝二十八時間超え〟で回してた。深夜帯も入ってたし」
「留学生も立件?」
「ケース次第です。ただ今回は、学生よりブローカーの阿久津が本丸でした」
「店側は?」
「店主は〝留学生とは知らなかった〟〝掛け持ちは知らなかった”で押し通してました」
「それで通るのか?」
「在留カード確認義務があるんで、完全には無理ですね。ただ、二十八時間超えを認識してたか、となると別です」
「実際は知ってた?」
清川は苦笑した。
「夜中まで働かせて、知らないわけないでしょう」
「つまり、そこまで大事件じゃない」
「ええ。店主も学生も、たぶん書類送検で終わりだったはずです。阿久津にしたって、せいぜい罰金刑だったでしょう。普通なら、こんな大騒ぎになるような件じゃない。阿久津が死んで、この件は処分保留で終わりです」
「摘発のきっかけは?」
「同業者のタレコミです。匿名で」
伊場は腕を組んだ。
「そんな軽微な案件に、どうして小暮」伊場は言葉を改めた。「ソトニが首を突っ込んできた?」
「公安って事大主義ですから、放っておけなかったんですよ」
「そんな程度か......」
「決まってるじゃないですか」
「調書を見たいな」
清川が一瞬、食堂を見回した。誰も、こちらを見ていない。
「いいですけど、うちの分だけですよ。外事のはないです」
「いいよ。できたら、留置人名簿と接見簿、それと看守日誌も」
「そんなもの見て、どうするんですか?」
「こっちはこれから一週間やることがない。それを見てせいぜい暇をつぶすさ」
清川が肩をすくめてうなずいた。
飯は、半分ほど残した。
午前九時過ぎ、伊場は官舎を出た。ふだんどおり、バスと徒歩で、九時半には吉祥寺署の裏口に立っていた。空は低く、雲が厚い。雨はまだ落ちていないが、遠からず来るだろう。半袖では少し肌寒かった。
警務課に電話を入れ、入船(いりふね)を呼び出した。入船は拳銃担当だ。相手はすぐ出た。
「伊場です。いま、署の裏口にいます。ちょっとだけ、来てもらえませんか。昨日の件で、ひとつだけ確認させてください」
電話の向こうで、入船が短く答えた。すぐ行きます。それだけだった。
三分後、裏口の扉が開いた。
入船光男(みつお)。三十代前半、警務課の拳銃管理担当。几帳面な男で、書類仕事が得意だという印象がある。顔色は悪かった。ファイルを携えている。
「伊場さん、職務停止中でしょう。自宅に戻ってください」
声が固い。言葉に気持ちがない。
「二分でいいから聞いてよ」
「困ります」
「小暮に拳銃を回したのは、あなたか」
入船の喉が動いた。周囲をうかがう目に、隠しきれない怯えがある。
「......小暮さんが警務課に来たのは、阿久津が逃げた直後です。通常の一時貸与の手続きを踏む時間なんて、ありませんでした。でも、これを見てください」
入船が差し出した貸与簿の承認欄に、曽我厚志(そがあつし)のサインが、掠れたボールペンで殴り書きされていた。
「副署長の直決です。署長の決裁は後回しでいい、おれが全責任を持つ、と。副署長が、直接そう指示されたんです」
「本部への照会も、上位者の複数承認も飛ばして、ですか」
「......非常時でした。被疑者が逃げて、人質を取った。一刻を争う、と。わたしは、拒めませんでした」
伊場はじっと書類を見た。拳銃の一時貸与は、通常、厳格な手続きを要する。本部への照会、上位者の複数承認、理由の明示。それが、副署長の一筆で完結している。
「小暮は、なんと言って申し出たんですか」
「......『被疑者を逃がしたのはわたしの責任です。現場に急行します。拳銃を貸与してください』と言ったそうです。副署長から直接聞きました」
急行、という言葉が耳に残った。
責任を取りに行く。それが、小暮の言い分だったのか。
「曽我副署長は小暮の事案について、気にかけていたんですか?」
入船の表情が、わずかに揺れた。言いたくない、という気配だった。伊場は黙って待った。
「......これは、わたしが直接見たわけじゃないですが」
「聞かせてください」
「阿久津の取り調べ中、何度か隣室に来てモニターを見ていたという話は聞きました」
伊場は、すぐには答えなかった。
副署長が、公安の取り調べを見ていた......。
「副署長がそう言ったんですか?」
「それは......」
入船は、首を横に振った。言い過ぎた、という顔だった。
「すみません。これ以上は。ほんとに、帰ってください」
入船は顔を強ばらせたまま、裏口の扉を押して中に入った。扉が閉まる寸前、一度だけ振り返って、何か言いたそうな目をした。しかし、言葉は出なかった。扉が閉まり、金属のラッチが噛む音がした。
伊場は、しばらくその場に立っていた。
副署長が取り調べを覗いていた。それは何を意味するのか。曽我は公安畑の人間ではないはずだ。それでも、逃走前から、阿久津の取り調べに関心を持っていた。公安の小暮が何を引き出しているか、確かめようとしていた。それとも、小暮を監視していた?
考えながら歩き出した。
吉祥寺署は五日市(いつかいち)街道ぞいにある武蔵野八幡宮の西隣にある。署から阿久津が逃走したと思われるルートをたどった。八幡宮交差点から吉祥寺通りを駅方向へ進んだ。コンビニとホテルに挟まれた路地を西にとる。五十メートルほどで四階建ての雑居ビルに行き着いた。一階には無機質なコインランドリーと、看板の剥(は)げかかった雀荘が入っている。排気ガスと湿気で黒ずんだコンクリート造の壁には、消費者金融や塾のポスターが隙間なく貼られていた。
二十四時間前、この薄汚れたビルの屋上で、小暮は死んだ。
吉祥寺通りの喧騒から離れて、沈んだ空気が流れている。錆(さ)びた非常階段が剥(む)き出しになったビル群の隙間で、六月の重い空がどんよりと濁っていた。
入口に貼られた立ち入り禁止のテープを見つめた。中には入らなかった。入る理由もない。ただ、ここに来ずにはいられなかった。
見上げると、屋上のフェンスが見えた。あの場所に、阿久津がいた。人質の女児がいた。小暮もいた。自分も。
伊場は、目を閉じた。
屋上のことを、また思い出した。小暮が射線上に現れた。「撃つな」と叫んだ。それから、銃を構えた。あの銃口が、自分に向いていた。本気だと思った。だから、撃った。
だが、本当に本気だったのか。
考えかけて、伊場は首を振った。考えたところで、何になる。撃ったのは自分だ。小暮は死んだ。それが、すべてだ。確かめる術(すべ)はもうない。
携帯を取り出しかけて、伊場は止まった。
昨日、自分は小暮を撃った。その手応えが、まだ右手のどこかに残っている気がした。圭子(けいこ)に、連絡しなければ。そう思いはした。だが、できなかった。どんな顔をして、何を言えばいいのか。あなたの夫を撃ったのはおれです。そう言うべきなのか。言えるはずがなかった。指が画面の上で止まったまま、動かなかった。
そのとき、携帯が震えた。
画面に「小暮圭子」と表示された。
伊場は息を止めた。
着信音が鳴り続ける。手のひらの中で、携帯が震え続ける。出るべきか。出て、何を言う。出ないという選択も頭をよぎった。だが、それはあまりに卑怯(ひきょう)だった。
三度目の震えで、伊場はこわごわ画面に触れた。
「......もしもし」
声がかすれた。
「伊場くん」
圭子の声は、思ったより落ち着いていた。それがかえって、伊場の胸を締めつけた。
「あの......会って話したいの。きょう、これから来てもらえる?」
伊場はすぐに答えられなかった。
心臓が激しく打っていた。会う。圭子と。夫を撃った男が、その妻と向き合う。耐えられるのか。
だが、断ることもできなかった。
「......わかりました」と、どうにか声を絞り出した。「これから行きます」
電話を切ったあとも、しばらく動けなかった。手のひらに汗がにじんでいた。
署に戻る道すがら、増井の携帯に電話をかけた。強行犯係の同僚だ。幸い、増井は署にいた。
「悪い、頼みがある。捜査用車の鍵を、裏口まで持ってきてくれないか」
電話の向こうで、増井が息を吐いた。
「伊場さん、職務停止中でしょ」
「私用だから」
「捜査車両は困りますよ。上に知れたら」
「黙っといてくれ」
また沈黙。それから、増井が「まったく」と言った。
十分後、裏口に増井(ますい)が現れた。迷惑この上ない、という顔で鍵を差し出した。
「無茶しないでくださいよ」
「ありがとう」
伊場は鍵を受け取り、管理札を見て、該当する車種を探した。シルバーのシルフィを見つけた。ガソリン残量を確かめてから署を出た。
武蔵野市西久保(にしくぼ)にある西窪(にしくぼ)住宅に住んでいる。車ならすぐだ。
〈つづく〉