新島八重と新島襄~奇跡の出会い
2013年08月30日 公開 2024年12月16日 更新
「幕末のジャンヌ・ダルク」と「平和の使徒」
新島襄と山本八重の出会い
兄 山本覚馬のもとに来て年を越し、28歳になった明治5年(1872)4月、八重は覚馬の推挽により、女紅場(女子に対して読み書き算盤、裁縫・手芸を授けた教育機関)の権舎長兼機織教導試補に任ぜられた。
この女紅場に、裏千家13代千宗室(圓能斎鉄中)の母が茶道教授として勤務しており、これがきっかけで、八重は茶道に親しむようになる。
女紅場で教鞭をとりつつ、八重は、明治8年(1875)に新島襄が京都にやってくる以前より、木屋町にあるゴードンの家に聖書を習いに行っていた。
明治8年(1875)のある日、八重がいつものとおり、ゴードンの家へ聖書のなかの「マタイ伝」を読みに行ったところ、ひとりの男が玄関で靴を磨いていた。
八重は、ゴードンのボーイが、ゴードンの靴を磨いているのだと思ったので、べつに挨拶もせず、家のなかに入った。
ところが、しばらくすると、ゴードン夫人が言った。
「新島襄という人が来ているから紹介しましょう」
このときが、八重が襄と顔を合わせた、はじめての瞬間だった。
当時、八重は女紅場に勤めていたため、襄は八重に学校のことをいろいろと質問したうえで訊いた。
「ぜひ、女紅場を拝観しに行きたいから、都合してくれませんか」
まさか、この男と結婚することになろうとは思ってもいなかったので、「わかりました」とだけ言い、その旨、学校に伝えた。
数日後、襄は女紅場の拝観に来た。
八重たちはイギリス人教師から英語を習っていたが、使っているテキストを見て、襄は「よくそんなむつかしい本を習っているな」と驚いていた。
嚢は、イギリス人教師といろいろ話をして、その日は帰っていった。
そのあとも八重は、ゴードンの家に通っていたが、そこで襄と会うことは2度となかった。
新島襄の理想のタイプ
いっぽう襄は、学校設立に向け、たびたび京都府権知事の槇村正直のもとを訪ねていた。
あるとき、槇村が襄に訊いてきた。
「新島さん、あなたは、妻君を、日本人から迎えるのか、それとも外国人から迎えるつもりなのか」
襄は、槇村に答えた。
「外国人は生活の程度がちがいますから、やはり日本の婦人を娶りたいと思います。しかし、亭主が『東を向け』と命令すれば、3年でも東を向いているような東洋風の婦人はご免です」
「それなら、ちょうど適当な婦人がいる。山本覚馬氏の妹で、いま、女紅場に奉職している。たびたび、わたしのところへ『女紅場に補助金をくれ』と陳情に来るのだ。学校の幹部たちはわたしを恐れて来ないが、あの婦人はそうじゃない。どうだ、その娘と結婚しないか。結婚するなら、わたしが仲人をしてあげよう」
しかし、そのとき、襄は八重のことなど、気にも留めていなかった。
そのころ八重は、友だち2、3人といっしょに、三条大橋の西詰にある「目貫屋」という旅館へ、襄に聖書を習いに行っていた。
「目貫屋」は、大阪に寄宿していた襄が京都に来るときの定宿で、覚馬が仕切る京都勧業博覧会を見物するために来ていた。
この「目貫屋」で、八重は会津籠城戦の話をして聞かせた。
その少しあと、夏ごろのこと。
八重が、あまりの暑さに耐えかね、中庭に出て、井戸の上に板戸を渡してその上で裁縫をしていた。
ちょうどそこへ、覚馬のもとにやってきた襄が言った。
「妹さんは、たいへん危ないことをしておられる。板戸が折れたら、井戸の中へ落ちるではありませんか」
すると覚馬が言った。
「妹は、どうも大胆なことをして仕方がない」
そのとき襄は、槇村から聞いた話を思い出し、こう思っていたのだろう。
もし八重が承諾するなら婚約しようか、と。
そして、以後は、八重のことに目を向けるようになった。
このころ八重のほうが、相手がだれであれ、結婚するつもりがあったかどうかは定かでない。
この年、八重はすでに31歳という大年増で、しかも会津時代にいちど川崎尚之助と結婚していた。まさか2度目の結婚をしようなど、思ってもいなかったかもしれない。