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明智光秀は認知症だった!?~本能寺の変の意外な真相

岩井三四二(作家)

2014年06月06日 公開 2023年01月16日 更新

『とまどい本能寺の変』より

 本能寺の変の真相について、私の持論を披露したい。

 まず、「なぜ光秀は信長を討ったのか」という大きな謎にとりかかる前に、光秀その人について検討してみよう。

 私が注目しているのは、光秀の年齢である。

 通説では変の当時、55歳だったとされている。映画やテレビでも光秀役は30~50代の俳優が演ずることが多いようである。

 しかし通説ほどあてにならぬものはない。働き盛りの武将としてふさわしい年齢なので、55歳説は広く受け入れられてきたが、その根拠は実はひどくあいまいなのである。

 昭和33年(1958)刊、高柳光寿著の『明智光秀』(吉川弘文館)に「光秀の年齢」という項目がある。

 ここでは、まず最初に「光秀の年齢はわからない」としつつも、『明智軍記』という書物では55歳としているとし、この書は悪書で信用できないが、

 「しかし何だかそれくらいではなかったかというような気もする年齢である。そして光秀の年齢はこの書以外には全く所伝がない」

 と結ぶのだ。

 これが55歳説の根拠である。

 著者の高柳氏は日本歴史学会長をつとめた戦国史学の重鎮で、しかも学者による光秀の評伝はこれが最初、ほかに異を唱える学説もないこともあって、「何だかそれくらいではなかったかというような気もする」だけで光秀は55歳とされてしまったのだ。

 高柳氏が最初に「光秀の年齢はわからない」と釘を刺しているのに、結果的に数字だけが一人歩きしたのである。昭和30年代とは、まことに大ざっばな時代だったようだ。

 しかし、学問は進歩する。

 昭和33年以降これまでに、いくつかの史料上に光秀の年齢が記載されているのが発見され、報告されてきた。その結果、55歳説のほかに57歳、63歳、そして67歳の3つの説が新たに出てきたのである。

 それぞれの説を検討してみよう。まず55歳説の出所である『明智軍記』は、江戸時代中期、元禄のはじめごろに刊行されている。つまり光秀死後100年以上もたってから書かれた軍記物である。

 軍記物とはなにかといえば、「江戸時代に書かれた時代小説」と思ってもらえばよい。すなわち「創作物」であり、面白く読まれることを眼目として書かれ、木版刷りで出版された書物で、歴史の事実を伝えるものではない。高柳氏は『明智軍記』を「誤謬満載の悪書」と指弾しているほどである。事実と空想を混じえて書かれているので、歴史史料としてはあつかえない。

 またいくつかの系図類も55歳説をとっている。系図類までふくめると、史料の数からいえば55歳説が一番多いようだ。しかし系図類は、信頼性としては軍記物と同等か、それ以下の評価しか与えられていない。前記の高柳氏も系図類は重視せず、というより無視して論を進めている。

 57歳説は、肥後熊本藩細川家の家史である『綿考輯録』にある説だが、これは18世紀終わり、つまり光秀の死後200年ほどたってから編纂されたものであるし、63歳説は軍記物で、『明智軍記』とほぼ同じころに書かれた『織田軍記』にあり、いずれも史料の信頼性という点で疑問符がつく。

 その中で、『当代記』という書物に、「明智、時に六十七歳」との注記があるのが昨今、注目されている。これは戦国史研究家の谷口克広氏がその著『検証 本能寺の変』(吉川弘文館)で指摘されたのを嗜矢とする(光秀の年齢に関するこの書の記述も、同書に教えられるところが大きい。紙面を借りて御礼申しあげます)。

 『当代記』は江戸時代初期に書かれており、しかも軍記物ではなく、年代記の体裁になっている編纂物、つまり史実を伝えるために書かれたものである。時代小説の『明智軍記』よりはるかに信用できる書物なのだ。書物の信用力が書いてある内容の確実性を保証すると考えれば、67歳説は有力となる。

 以上をまとめると、57歳、63歳説は史料の信頼性で劣り、支持しにくい。おなじく信頼性は足りないものの、史料の数でいえば55歳説に軍配があがるが、史料の信頼性の高さからすると、67歳説をとるほうが合理的ということになる。

 どちらをとるかという話になるが、私は67歳説をとりたい。『当代記』の記事は全般におよそ信頼できるものであるし、55歳という「らしい」年齢でなく、67歳というちょっと「意外な」年齢を書き込むあたり、それなりの裏付けがあったはずと思うからだ。なにより光秀死後数十年の、生前の光秀を見知っている人がまだ生きていたであろう時代に書かれている点が強い。

 しかし光秀の年齢を67歳とすると、別の問題が生ずる。人生50年といわれた戦国時代に、67歳のご老人が鎧を着て合戦をするなど、感覚的には受け入れがたいのである。本当に光秀はこんなに老けていたのだろうか。

 だがちょっと調べてみると、当時でも高齢者は十分に活躍していたのがわかる。

 織田信長の右筆に70歳前後と思える者が楠木長諳と武井夕庵のふたりおり、京都所司代の村井貞勝も70歳前後、旗本の武将にも少なくともひとり-稲葉一鉄-はいる。

 本能寺の変の時点で、信長の下には方面軍団長ともいえる家老格の重臣が4人いた。畿内をうけもつ光秀のほか、北陸方面の柴田勝家、関東の滝川一益、中国の羽柴秀吉である。

 それぞれの年齢をみると、秀吉だけは飛び抜けて若く46歳だったが、滝川一益は58歳、柴田勝家は60歳前後(57歳、58歳など諸説ある。『フロイス日本史』には60歳に達しているとあり、高柳光寿氏は62歳としている)だった。ここに明智光秀67歳を入れても、さほど違和感はないように思える。

 さらにいえば、徳川家康が大坂夏の陣を指揮したのが74歳、毛利元就が最後の子供を作ったのが71歳と、元気なお年寄りはいつの時代にもいるものなのである。

 光秀が67歳だったとしても、戦国武将として不自然ではない。やはり『当代記』の記述を信じていいのではないかと思われる。

 と、年齢について結論を得たところで、つぎに光秀の「小さな謎」について考えてみたい。

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