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社会

〔記事再録〕国家と国民をいかに守るか

中西輝政(京都大学教授)

2011年06月06日 公開 2023年02月08日 更新

 松下幸之助は1976(昭和51)年に、PHP研究所創設30周年記念事業の一つとして、『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』と題する一冊の本を著した。「21世紀に日本はこういう国になってほしい」と考えた理想的な日本の国家・社会の姿を物語風に描いたものである。

 この近未来小説は、西暦2010年に、大掛かりな国際世論調査の結果が発表されたという設定で話が始まる。その調査で「世界でもっとも理想的な国」の圧倒的な第一位にランクされた日本を訪れたある国際視察団一行の足取りを追いながら、その実情はどのようなものなのかを探るという筋書きである。

 本稿は、2010年を迎えたこの機会に、松下の“夢”を振り返り、それがどの程度まで実現に近づいているのか検証するものである。

 今回は、PHP総合研究所主任研究員の金子将史が自衛と安全についての『21世紀の日本』の記述と、現在の実情との比較を分析し、中西輝政氏に、松下幸之助の精神と照らし合わせて浮かび上がる「現代日本の課題」について解説いただいた。

松下幸之助が描いた「自衛のあり方」とは?(金子将史)

 国際視察団の一行は、防衛庁に岡田長官を訪ねた。

 まず、ハーマン氏が、防衛についての日本の基本的な考えについて質問する。長官は、世界の平和を保ち、広げていくには、みずからある程度の防衛力を備えなければならないとし、軍備のない世界が理想かもしれないが、現実問題として、各国が軍隊をもっている以上、ある程度の備えは必要である、との認識を示す。

 自衛隊についての国民の見方について尋ねたクラーキン氏に対して、岡田長官は、国民は国の自衛や安全を大切に考えるようになっており、自衛隊を重視し、親しみをもっている、と答える。30年前の日本には、自衛隊の存在意義についての議論があったが、いまでは強力で合理的な自衛隊を存置することが国民の常識になっている。

 世論の支援を背景に、自衛隊には有為の人材が集まるようになっている。5年の任期中、隊員は、国を守る知識技能を磨くと同時に、一般の社会人としての知識技能も身につける。3割は自衛隊にとどまるが、7割は一般の社会人となり、世間の高い評価を受けている。

 自衛隊は核兵器を保有していないとの説明に、トアン氏は、それでは日本の防衛力は十分ではないのではないか、と疑問を投げかける。それに対して長官は、核時代にも通常兵器は無用なものではなく、「日本では、核兵器はもたないけれども、核以外の通常兵器なり防備の面ではかなり力を入れていますし、それは世界諸国からも一流のレベルにあると認められている」と述べる。

 防衛費は国家予算の10%以内であり、主要国の平均は20%だが、自衛力は国情に応じた範囲で充実させればよい、と岡田長官は語る。国家予算の10%も自衛隊に費やすより、各国との平和協定で自国の安泰を期す方が安あがりではないかとミリー氏は問うが、長官は、平和協定を結んでいても、国際環境はくるくると変わるものであり、最悪の場合を仮定することが必要だと答える。

 ここでハーマン氏は、防衛力をもっていることが侵略戦争のきっかけになるのでは、との疑問を投げかける。長官は、「それは国民がしっかりしていれば大丈夫です」と答える。長官の考えでは「平和をほんとうに望んでいる国家国民であれば、その国にふさわしい防衛力はあっていいというか、むしろなければならない」。

 ミリー氏が、独立したばかりの自国では、世界の国々に信頼して、防衛軍をもつのをやめようという議論があるがどう思うかと水を向けると、岡田長官は一人前の独立国は、自らの安全や生存は、できるかぎり自らで守り、そのうえで他国と協調して世界の平和と繁栄を求めることが「天意にかなった姿」だと論じる。自然界の生物は、たとえば保護色のように、それぞれの自衛手段を備えている。まして知恵、才覚を与えられている人間にとって、できるかぎり自分を守り、共同生活を守っていくことが自然の理法にかなった正しい姿なのだ、と。

 岡田長官は、防衛力、自衛力は武器によるものだけではないと説き進める。食糧やエネルギーなど国民の生活の安定や生存に必要なものがつねに確保される状態か、非常事態において国内治安が維持できるか、国民の防衛意識はどの程度か、外国からどれほど信頼を受けているか、といった、さまざまな面での備えが総合的にできていてはじめて、堅実にして力強い防衛、自衛ができるというのである。

 最後に日本の防衛の今後の課題について尋ねたハーマン氏に、岡田長官は、共存共栄外交の一環として、世界平和への努力を自主的に積極的に進めること、と答える。そのためには国民の自覚を高め、自分を守り、自国を守るだけでなく、同時に世界を守るという大きな目標をもつ必要がある。そして岡田長官は続ける。世界平和なしに日本の存立はなく、日本は世界平和について協力を惜しんではならないが、力に力で対抗するものではなく、力に対しては、徳や精神的立派さ、諸国への必要度、信頼度で対していく国としての力量を養っていかなければならない、と。

 岡田長官は、日本は、ある程度の防衛力、自衛力をもちつつも、共存共栄外交、すなわち徳行外交によって立つよう心がけている、という。長官は「経済大国から徳行大国へ」という理想の国家像を示し、日本国民にはそれを育てていく素質、条件がそろっている、と熱く語りかける。

2010年の実際の姿とは?(金子将史)

 本書が刊行された1970年代には、自衛隊の位置づけはまだ不安定だった。すでに世論の大勢は自衛隊の必要性を認めるようになっていたが、野党第一党である日本社会党は、なお自衛隊を違憲とする立場をとっていた。本書は、そうした時代背景のなかで、防衛力の必要性を強調し、平和を望む国家国民は、むしろその国にふさわしい防衛力を備えていなければならない、と説いたのである。

 今日では本書が予想したとおり、自衛隊が必要であることは国民的常識になっている。1978年に実施された「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」では、自衛隊や防衛問題に対する関心が「ある」と答えた割合は47.1%にとどまり、「ない」と答えた割合が50.4%だったが、2009年の調査では、「ある」が64.7%、「ない」が34.4%と大きく逆転した。

 本書が刊行された1976年は、新冷戦が始まる少し前であり、米ソのデタント基調は何とか保たれていた。興味深い符合だが、本書の刊行とほぼ同時期に、当時の三木内閣が、防衛計画の大綱を発表し、防衛費GNP1%枠の閣議決定をしている。1975年の防衛費は一般歳出中8.4%(一般会計歳出に対しては6.23%)であり、国家予算の10%という数値は、当時の基準では防衛費の拡大を求めるものだったといえる。近年の防衛予算は、財政状況の厳しさもあって、一般歳出に対して10%強と、ほぼ本書の予想したとおりの数値になっている(2009年度予算は経済危機対応で他の支出が増加したため9%強。なお、一般会計歳出比は6%前後で推移)。だが、日本が7年連続で防衛費を減少させるなか、中国等の周辺諸国が軍拡を続けてきたことを考えると、「国情」にあった予算配分かどうか疑問が残るところである。

 物語とその後の現実がもっとも大きく乖離している点は、日本の安全保障政策における日米同盟の位置付けである。興味深いことだが、本書には米国との同盟関係についての記述がみあたらない。本書の刊行後、日本は、中曽根内閣の下、シーレーン防衛などでの米国との協力を本格化させていった。冷戦終結後、朝鮮半島有事やミサイル防衛などで米国との防衛協力は一層緊密化してきた。

 自らの安全や生存をできるかぎり自ら守ることを、独立国としての「天意にかなった姿」とする本書の立場は、必ずしも日米の強固な同盟関係と矛盾するものではないが、今日の日本に、自ら守るという基本的な姿勢が確立しているかといえば疑問である。

 普天間基地問題での鳩山前首相の挫折はそのことを端的に示すものだった。米国への依存を低減したいという心情が先走り、では日本をどのように守っていくのか示されることはなかったのである。朝鮮半島情勢が緊張し、中国が軍事的にも台頭するなか、自らを守るという姿勢と日米同盟をどう整合させるか、あらためて問われている。

 本書にある、防衛力・自衛力は「軍事力だけでなく、食糧やエネルギーの確保、治安や防衛意識、さらには国際的な信頼といった要素を含む」という発想は、その後「総合安全保障」という考えとして一定の支持を得ることになる。国際的信頼を重視し、「徳行国家」をめざすとする考え方は、今日のソフト・パワー論に通じるところもある。

 では日本は「徳行国家」に近づいているのか。近年の各種国際世論調査では、日本に対する評価は比較的高い。だが満足するのは早計だろう。たしかに日本は好意をもたれているかもしれないが、力に徳をもって対する国家として力強い存在感を発揮しているとはいえまい。

 物語は、日本は自国のみならず、「世界を守る」という大きな目標を掲げるべきとしているが、現実とは程遠い。冷戦後、日本は自衛隊を世界各地の国際平和活動に派遣するようになりはしたが、引き続き海外での武器使用や集団的自衛権の行使を過剰なまでに自制している。本書発刊当時、日本は、ODAを急拡大しようとしており、1989年以降、日本は世界第1位のODA拠出国となるが、2001年には米国、2006年には英国、2007年には独仏に抜かれ、世界5位に転じた。

「世界を守る」どころか、自国を守ることについても、日本ではまだ逡巡がみられるのが実情である。物語のなかで、岡田長官は、賢明なる国家国民が防衛力をもっても、それを戦争に使うことはありえず、平和を望む国民は、むしろその国にふさわしい防衛力をもたねばならない、と断言している。残念ながら日本国民は、こうした自らに対する信頼、確信を、いまだ得るには至っていないようである。

勇気ある現実主義と、きらめく理想主義(中西輝政)

颯爽たる「自助・自立」の姿勢

 松下幸之助氏による物語仕立ての論考『21世紀の日本』の「自衛と安全」の項を読んだ感想をひと言でいえば、「よくぞ当時、ここまで踏み込んだ」である。いまの若い日本人にはピンとこないかもしれないが、この時代を知っている人間からすれば、当時、財界のリーダーとしてここまで書いたのは、そうとうの勇気と使命感があったからであろうことが、痛いほどわかる。

 本書が発刊された昭和51年当時は、日本人のほぼ半数が自衛隊を違憲とみなしていた。残る半分の容認派も、その理由としては、災害救助や「地方における雇用先として」などを挙げることが多かった。学界でも主流は非武装中立論で、国の安全のために軍事力が必要と考える人など、ほとんどいなかった。ちょうどそのころ、私は英国留学をしていたのだが、イギリスのほとんど全国民が「国の安全のために軍事力は必要だ」ということを自明の原理として受け入れていたことに、ほかのいかなることよりも最大のカルチャーギャップを感じたほどであった。

 そういう時代であったから、本書の「防衛力・自衛力はきわめて重要」「自らある程度の防衛力は備えておかなければならない」という言葉をみただけで、当時の日本の識者の大半は、「え? 松下幸之助は何を言い出すのだ」という抵抗感をもったはずである。

 だが、当時このようにきっぱりと言い切りえた姿勢にこそ、松下幸之助の思想の真髄をみる思いがするのである。そこにあるのは、現実を直視し、そのなかで厳しい選択をも引き受けて生きていこうという覚悟である。同時に、現実は複雑極まりないものであり、各種の調整や妥協が重要であって、過激に偏するくらいなら、むしろ平凡でも中庸のほうがマシという、人間にまつわる「根本的事実」をしっかりと掴んでもいる。

 しかもそれだけではなく、やはり遠い未来への理想に向かって進んでいくのだという方向感を示さねば「不毛な現実主義」に堕してしまうこともわかっていた。「武力などというものは、もちろんもたないに越したことはない。だが、それが実現するのは、世界の諸国が一斉に武器を放棄し、人類の理想を実現する世界が到来したときである。そのために何十年、何百年の長い年月をかけて目標に一歩一歩近づき、戦争のような不幸な出来事が起こるのをできるだけ少なくしていこう」という本書の主張が、安全保障についての遠い理想を言い尽くしている。

 さらに、「日本の防衛の基本は、力には力をもって対抗するのではなく、究極的には精神的な立派さや、諸外国にとって日本が必要だという信頼を高めるところになければならない。ある程度の防衛力は備えるけれども、できるかぎり共存共栄外交と徳行大国への精進によって安全保障を成り立たせるのだ」と語り、とかく現実主義だけで完結しがちな安全保障の分野に、一本、理想主義の筋を通していることにも、同じことがいえるだろう。

 松下幸之助という人間の精神のなかに、柔軟かつ勇気ある現実主義と、きらめくような理想主義がみごとに共存している。だからこそ、彼の外交安全保障論も、きわめて真っすぐで豊饒なものになっているのだ。

 翻って考えたとき、世の風潮に抗してでも根太いプラグマティズムを勇気をもって押し出せる強靭さと、理想に向かって進む精神の崇高さを、いまの日本はもちえているだろうか。かつての「非武装中立」の風潮は、たしかに大きく減退した。だが、その代わりに世の中に蔓延しているのは、あまりの「やさしさ」と「軽さ」である。典型が、鳩山前首相である。沖縄の普天間問題をめぐって「友愛」で安保を語っていたが、いつしか「抑止力の大切さを学んだ」と語りだした。また、菅首相が就任演説で早々と「現実主義」という言葉を口にしたこともそうだ。

 その「言葉」自体は正しい。しかし、その言葉はどこまでたしかな信念に発しているのか。こうなると、皮肉にも、むしろ非武装中立にこだわり、信念を通し連立政権からの離脱を表明した社民党の福島瑞穂党首のほうが、いまやよほど「颯爽」とみえてくるのである。平成日本はそこまで堕落しているのだろう。この無責任な「やさしさ」と「軽さ」は、昭和から平成へ移った日本の、ほとんどすべてのことに通底している。平成に入ってからの「失われた20年」の原因も、そこにある。

 戦後日本の成長の影には、敗戦後も日本人がもちつづけた高い精神性があった。松下氏がこの論考を書いた当時も、それは残っていた。そのことを端的に教えてくれることこそ、本書において「アメリカ」とか「日米同盟」という言葉がまったく出てこないことである。

 なぜなら、当時の日本人にとって防衛・安保問題は、非武装中立論も含めて、ともかく自前でやることが大前提だったのである。自衛隊を認める立場からしても、あくまで国防は日本人自らの立場で「自立」して行なうべきものであって、その頭の中では、日米安保はあくまでその補助にすぎなかった。そして非武装中立論も、じつはその点で同じ地平にあった。理想的には日本人が主体的に武装を捨てて自らの航路を切り拓くということであり、そして表面はともあれ、より現実的に左翼指導部が考えていたのは、要するに同盟を結ぶ相手がアメリカだから気に入らないということだけで、本音は「日本人民の武装力」によって日本を守ることにあった。

 この時代の日本人のもった安保問題についての究極の理想は、左右陣営問わず「自立」だったのであり、松下氏だけではなく当時の日本人にとって防衛問題とは、日本人が「自ら携わるべき」問題だったのである。

 このような颯爽たる「自助・自立」の姿勢は、松下氏に限らず、戦後日本を築いた経済人たちの多くに通じるものである。ソニーの盛田昭夫氏は『「NO」と言える日本』を発表し、井深大氏も日頃から「アメリカに負けるな」と語りつづけた。本田技研工業の本田宗一郎氏も「技術で日本はアメリカに勝つんだ」という強い思いをもっていた。

 その共通するところは、つねに「人間いかに生きるべきか」という思いから人びとが発言していたことである。「結果がよければいい」というのでなく、ありったけの努力と知恵を振り絞ることを重んじたのだ。そのうえで大きく挫折し、悲劇に終わったとしても、それは意義ある人生だと考える。これこそ明治の精神であり、おそらく戦後高度成長期までの日本人がもっていた信念であった。

 たしかに当時もマスコミでは、安保問題ではまるで非常識な議論がなされていた。昭和51年、ソ連のヴィクトル・ベレンコ中尉がミグ25で函館空港に強行着陸し、アメリカへの亡命を求めた事件が発生した。そのとき日本では、機体をアメリカに引き渡すか、ソ連に即時返還するかで大論争が起きた。現実に西側に属しているにもかかわらず、東西陣営のいずれでもないスタンスをとろうとする議論が根強くあったのである。ソ連からの即時返還要求にいち早く呼応したのは日本社会党であったが、政府は結局、ミグ25の機体を分解検査し、その性能を丸裸にしたうえでソ連に返還したのであった。

 国際状況からすればデタント(緊張緩和)の時期ではあったが、当時の日本はけっして安定的な環境下にあったわけではない。朝鮮半島はいま以上に鋭く緊張していたし、台湾海峡もいつ何時火を噴いてもおかしくない状況にあった。オイルショックによって、営々として続けてきた経済成長が「ついにここで止まるのでは」という懸念もあった。その意味では、気分的には平成の現在と似ているといえるのかもしれない。

 だがその後、日本はオイルショックを乗り越え、さらなる経済成長を遂げて輝ける経済大国となった。

 80年代、中曽根政権の時代に大きな岐路を迎えた。先進国首脳会議の一員としての意識が強まり、同時に非武装中立論者が減り、「日米同盟」という言葉を平気で口にできるようになっていく。さらに成熟した先進国として「国際貢献」するといった、いまあるような議論がひとわたり揃いだす。遅ればせながら、冷戦を戦っている「西側諸国の一員」としての自覚をもったわけで、松下氏が最晩年を迎えるころ、ようやく日本人は松下氏の夢に沿う方向に動きだしたのである。

 この状態が続けば、事態は今日ほど混迷しなかっただろう。それがねじれた最大の理由は、「遅れてきた西側の一員」として目覚めた途端に、冷戦が終わったことにあった。ここで日本人は、深く透徹した世界観を育む暇もなく、「冷戦終焉」のお祭り騒ぎにのめり込んで、今後は「グローバルな市民社会」が生まれ、いずれ国連中心の世界秩序が生まれるという幻想へとはまり込んでいった。そして「冷戦も終わったのだから、防衛努力もこれまでより低下させて当然」という意識が芽生え、「自主防衛」という国としての大目標が忘れ去られ、その一方で厳しさを増しはじめた現実の安保環境のなかで、安易な対米依存心だけが強まっていった。実際、この巡り合わせの悪さが、今日の日本の多くの混迷につながっている。

 何のためらいもなくアメリカへの一方的依存を平気で口にできる平成日本人の生きざまは、あまりに哀しく、そして醜い。物質的にはいくら快適でも、それはしょせん奴隷の安逸でしかない。「これではいけない」との思いは、もはや誰も口にしなくなった。ある意味で、いまの日本人は松下氏が夢を描いた昭和50年代より一段も二段も堕落しているといわざるをえない。

いま「強い人間肯定」を甦らせよ

 もう一つ、松下氏が論考で重視しているのが「世界平和への貢献」である。日本が世界の諸国から評価され、必要とされることが、日本の安全保障にとって重要だという発想である。これはまさに昭和から平成に移った翌年、湾岸危機の際に活発化した議論である。

 ところがその後の日本で、腰を据えた国際貢献策が実現することはなく、ただただ表面的な対応にいまだに終始している。一つには当時、「国連中心の世界秩序が到来した」という気運が強まったことがある。だが本来これは、何百年も先に訪れるであろう理想的な国際社会の姿である。それを日本人は、今日明日の話として論じた。そんな幼稚さや軽薄さが、この時期に非常に強まったことは、その後、国際貢献論が一気に退潮したことと無関係ではないだろう。

 そもそも当時の日本が国際貢献論をすることに、かなりの無理があった。当時は自衛隊の海外派遣は何であれ反対という勢力が強く、「平和を守るには武力が必要」という観念が、日本人のあいだに十分に行き渡っていなかった(いまもそうだが)。また「国連決議」とはいえ、自衛隊派遣は、「唯一の超大国」だったアメリカとの関係抜きに考えられない。つまり、その実質は日米同盟の確認行為だったのだが、その政治性を多くの日本人は理解していなかった。さらに湾岸戦争やPKO(国連平和維持活動)論争を通じて露呈したのが、「結局は世界からどう思われてもいい」「国内のことだけが大切」という平成日本人の本音であった。そこから政治改革の議論が起こり、その後のバブル崩壊もあって、国際貢献論は大きく後退していく。熱しやすく冷めやすい日本人の国民性もまた、国際貢献論を衰微させた一因といえる。

 松下氏がこの論考でもっともいいたかったのは、おそらく国の安全や防衛を考えるときは、三つの要素をバランスよく守りたてることが大事ということである。一つは国力であり、二つ目は国際環境に敏感であること、三つ目は日本人の精神性である。これは単純な富国強兵を意味しない。食糧やエネルギー、外交力、信用力などまで含めた、いわばソフトパワーの充実である。太平洋戦争の原因を石油と考えれば当然の話で、この論考が出た数年後には大平内閣でも「総合安全保障」という考え方が出てくる。

 ただ、松下氏の論考が安易な「総合安保」論と大きく異なるのは、軍事力こそ安全保障の核心であるとはっきり押さえている点である。大平内閣の総合安保論は、軍事を究極的な核とするのかしないのか、はっきりしなかったため、アメリカの不満を買った。その結果、いまだに安全保障を論じる際、「軍事同盟や自衛隊拡充を考える前に、まず外交を努力せよ」としたり顔でいう評論家を跋扈させることにもなっている。まさに戦後平和主義の呪いが、平成日本を「出口なし」の状況に追い込んでいるのである。

 ある意味では、松下氏は、この戦後平和主義の呪いをあまりに軽くみていたのかもしれない。松下氏にとって前提となる日本人像は、あくまで明治、大正、昭和を生き抜いた日本人であり、ここまで精神的に堕落した存在になってしまうことを見抜けなかったのかもしれない。

 そう考えたとき、やはり深刻なのは日本人の精神の問題なのだということに思い当たる。たとえば北朝鮮や中国の軍事的脅威にいかに対峙するかを考えるとき、日米同盟を不動の大前提に置くような議論のなかに、すでにその深刻さが表われているといえよう。最終的に日本が孤立し、たとえ一国で中国の強大な軍事力を相手にすることになろうと、日本の独立と主権のために戦う覚悟があるかどうか。それが重要なのだ。軍事的合理性を論じる前にまず、この精神の存否が問われているのである。

 その覚悟のうえでアメリカと軍事的・戦略的に連携するというのが、ほんとうの「日米基軸」論なのである。その意志もなく「日米同盟こそ基軸」と呪文のように繰り返しているのが、いまの日本人だ。そんな国との同盟など、いずれ相手から見捨てられよう。

 つねに「自立」をめざした戦前の日本は、刀の刃の上を渡るような決断が日々求められる非常に厳しい生き方を強いられた。たしかに失敗もした。だがそれを乗り越えようとしたかつての日本人は、「一度の失敗で諦めてはいけない」という精神の強靭さを身に付けていた。日本と日本人への深い自信と信頼をもっていたからだ。それを体現していたのが、それこそ高度成長を成し遂げた松下幸之助を筆頭とする人びとであろう。

 平成の日本人は、それをすっかりなくしてしまった。だが、どの国にも不幸の巡り合わせがあり、すべてが悪いほうに循環する時期もある。人間の歴史は有為転変である。大切なのは、その有為転変のなかを、どれだけの苦労を背負っても前に進みつづけられるか、である。

 どれほど状況が悪くても、「必ずこの先に光がある」と信じ歩みつづける。そこに生きていくことの素晴らしさを見出す「強い人間肯定」の尊さを、松下幸之助はわれわれに教えてくれている。この人間肯定を甦らせなければ、平成日本の転機は訪れないだろう。

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