坐禅の作法と掃除の流儀
2018年02月12日 公開 2024年12月16日 更新
※本記事は、横田南嶺・鍵山秀三郎著『二度とない人生を生きるために』より、一部を抜粋編集したものです。
悟りの窓、気づきの扉
「手から感じたことは頭と心に響く。結局、それは物事の本質に近づくことだと。だから、手を使った掃除が大切なのである」
「腰骨を立て、丹田に意識を集め、ゆっくり呼吸をすると心が落ち着いてくる。坐禅を通して無の境地に到達できたら、人と争ったり、憎み合ったりすることもなくなるのではないか」
私の掃除道は、「ありがとう」ではなく「ありがたい」…鍵山秀三郎
掃除をしているときは無心になります。掃除だけに集中して、道路に腹這いになって、側溝の中に上半身を入れてしまうこともあります。私が倒れていると思って、人が飛んできたこともあります。それくらい夢中になるのが掃除なのです。
私の場合、掃除はすべて手を使います。便器も素手で洗います。なぜなら頭で考えることより、手で感じる感性を大切にしているからなのです。
手で感じたことは頭にも心にも響きます。自らの至らない人間性を少しでも向上させるためには、手で感じないとダメなのです。
目は臆病ですが、手は勇気があります。たとえば、トイレを目で見ると、汚いな、嫌だなと思います。でも、手で触れてみると、手は本当に勇気がある。小さな汚れや髪の毛一本でも指先で感じ取って、きれいにしようとします。
結局、それは問題の本質に近づくということでもあるのです。大事なのは、目の前の問題から逃げるのではなく、できるだけ近づいて対応することです。
ブラシを使ってこすったり、ゴム手袋をはめたりしていたのでは、ぬめりがわかりません。しかし、素手でさわればよくわかる。お母さんが赤ちゃんのおむつを替えるとき、手袋をする人はいません。手でやるから、赤ちゃんの身体の具合もわかるし、すぐに対処もできるのです。
私の掃除とふつうの掃除の違いは「ありがとうございます」と「ありがたい」の違いです。ふつうの掃除は終わると「ありがとうございます」と言います。でも、私の掃除は「ありがたい」と言います。口に出さなくても、たえず心の中で「ありがたい」と言っています。きれいにさせていただいて、ありがたいからです。
ところが、今の人は「ありがたい」ではなくて「当たり前」です。たとえば、飲み物の缶やペットボトルを中身が入ったまま平気で捨てたり、なかにはタバコの吸殻が入っているものまであります。お金を出して買ったのだから、一口飲んで捨てようが何をしようが自分の勝手。それが当たり前という考えなのでしょう。心の荒みがそういうところにあらわれているのです。
私は、中身が入っている缶やペットボトルは、中身を捨ててきれいに洗って、専用のハサミで切って回収します。捨ててある缶が植え込みの向こうの手が届かないような場所にある場合は、それを引っかけて取れる鉄の棒をつくって、回収しています。缶ひとつ、ゴミひとつ残さない。やるならそれくらい徹底してやります。
掃除のやり方も工夫しています。ほうき一本使うのでも、角度や穂先を考えて工夫しながらやるのとやらないのとでは、掃いたあとが違います。私から見ると、ほうきが泣いて、悲鳴をあげているような使い方をしている人がたくさんいます。それではきれいになりません。
草を取るときも、取る角度があります。私は草一本を引き抜くときでも、どんな角度で引っ張ったら根元から抜けてくるかを考えながらやっています。ところが、ふつうの人は何も考えずに無造作に取ってしまいます。地上の部分だけ取っても、根は残っていますから、また生えてくるだけです。草の上だけちぎっても、それは草取りとは言いません。
そういうことも手を使って、さわりながらやらないとわかりません。汚い環境では人の心は必ず荒れてきますから、そうならないように、自分の手を使い、五感を使って、環境を整えることが何より大切だと思います。