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社会

苫米地英人・「日本」を捨てよ―目の前の閉塞感を打ち破ろう

苫米地英人(脳機能学者)

2012年03月23日 公開 2023年01月05日 更新

※本稿は、苫米地英人著『「日本」を捨てよ』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

「閉塞感」の正体

いきなりですが質問。

あなたは自分の生まれたこの国が、いまの日本が好きですか?

この種のアンケート調査が行われると、おおむね日本人は「自分の国があまり好きではない」、少なくとも「積極的に好きとはいえない」といった結果になるのが最近の主流です。日本がそう呼ばれている「先進国」のあいだで比較すると、この傾向はとても顕著といえる。

もう1年以上前になりますが、「もし戦争が起きたら、国のために戦うか」と聞いたところ、中国、韓国、アメリカとくらべて、日本の小中学生はダントツで否定的な回答だったとの調査結果が出たこともよく知られています。

この20年ほどのあいだ日本人が感じつづけている閉塞感を考えると、この結果は妥当なのかもしれません。

では、閉塞感を感じ、自分の国に不信感を抱いている日本人は、なぜ政府に対して暴動も起こさず、デモ活動もせず、黙って言いなりになっているのか?―― 私の問題意識はここから出発しています。
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ところで、「閉塞感」という言葉は日常的によく使われるようになりましたが、そもそも、これはいったい何なのでしょうか。具体的にどんな気分、どんな状態なのかと問われても、なかなか正確には答えられないかもしれません。

少し考えてみてください。最近のあなたは「どうしたらいいかわからない」「どうしようもない」問題の数々を目の前にして、しだいに考える意欲を失いつつあるのではありませんか?

閉塞感とは、考えることさえやめてしまいたくなるような重たい無力感のことを指します。

東日本大震災から早1年。目を覆いたくなるような危機的状況は去ったように見えます。

ところが、とにかく無我夢中でがんばり、助け合うことで精一杯だった非常事態が収束に向かうと、私たちの目の前には数々の面倒な問題が横たわっていました。

復興財源の確保をどうするのか。そのためには増税しかないのか。原発事故の影響をどう評価し、被災者をどうやって救済するのか。将来ある子どもたちを筆頭に国民をいかに放射能から守るのか。そもそも放射能はどれほど危険なのか。今後のエネルギー政策はどう考えればよいのか――。

問題は、震災によって生じたものばかりではありません。それ以前から存在していた財政赤字や経済格差の拡大、社会保障(公的年金)制度の限界、これらに対処すべき政権の迷走と政党政治への不信――こうした課題も相変わらず解決されないまま。そのうえ、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)参加の是非などという厄介な問題までもちあがりました。

どれ1つとして軽視できない問題ばかりですが、残念なことに私たちは、これらの課題をクリアするためのまともな議論ができていない。これは一般国民に限った話ではなく、本来であれば議論を主導すべきマスメディアも含めてです。

TPPなどはまさにその典型ですが、マスメディアは賛成する輸出産業と反対する農家の意見を両論併記して、「これは重要な問題だ」「国民的議論が必要だ」などとお題目を唱えるにとどまりました。要するに、彼らも何が正しいのか、どのように考えるのが正解なのか、わからなかったのでしょう。一般国民はなおさらのこと。

考えても答えが出ないから自分の意見はもてず、「政治家や官僚がちゃんと考えてくれないと困る」と文句ばかりが増える。まともな議論がなされないまま、いつのまにか閣議や国会で何かしらの結論が出され、その後1週間ほどは「議論が尽くされていない」と批判が新聞に載るが、じきにその問題は忘れ去られていく……。

思い出してみてください。TPPにかぎらず、震災後の4度の補正予算にしても、福島第一原発事故の被災者救済計画にしても、同様のプロセスで事が進んでいってしまったはずです。
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いまや日本人は、自分たちの社会の差し迫った問題について、「どうしたらいいかわからない」「どうしようもない」と思考を放棄してしまうクセを身につけてしまいました。

その理由は2つあると考えられます。

まず、自分の問題解決能力に自信がないこと。20年も続いた経済停滞は、日本人の自信をすっかり失わせてしまった。

自分自身の能力に対する自己評価のことを、心理学では「エフィカシー」(自己効力感)と呼んでいます。わかりやすくいえば、「自分はこれだけのことができる」という信念と言い換えてもいいでしょう。

問題に直面したとき、人は無意識のうちに自己と対話する。「この問題を自分は解決できるだろうか?」と自問自答するのです。このとき、エフィカシーが低ければ、問題は相対的に大きく、手に負えないものと感じられるでしょう。日本人はまさにいま、そのような状態にあるのです。

その一方で、財務省や厚生労働省が、国民におとなしくお金を出させるために、「日本はもうダメだ、日本の将来は暗い」と言いつづけ、問題を過大に評価してきたせいもあるでしょう。結果として、「どうせ自分の考えることなんて役には立たない」というあきらめが、日本人をすっかり呪縛してしまったのです。

もう1つの理由は、ほんとうに問題が難しくなっていること。経済成長率が下がると、パイの取り合いが起きるのは避けられません。実際、格差は拡大していますし、社会保障に関しても世代間の不平等が叫ばれています(どこまで真実かは別として)。

つまり、同じ「日本人」のなかでの対立が覆い隠せなくなってきたのです。

こうしたシビアな利害の衝突をクリアして日本全体にとっての最適解を導き出すのは、いわゆる専門家であっても容易ではありません。ましてや素人である一般国民が、たとえばTPP参加の是非について考えが及ばないのも、ある意味、仕方のないことでしょう。

とはいえ、私たちは仕方ないと言ってすませているわけにはいきません。「どうしたらいいかわからない」「どうしようもない」と思考を放棄してしまっては、政治家と官僚、そして声の大きな一部の人々に問題解決は委ねられたまま。彼らに社会の舵を丸投げすることがどれほど危険か、私たちはバブル崩壊以来、さんざん思い知らされてきたではありませんか。

なんとかして「どうしたらいいかわからない」「どうしようもない」この閉塞感を打ち破り、国民一人ひとりが問題解決の主体となる必要があります。

そのために、まずは答えを出せることから出してみよう。

答えや解決策と呼ばれるものは、現状における仮説にすぎません。けれども仮説さえあれば、それに従って行動してみることはできます。また、仮説を提示すれば批判も受け、それに反論しなければならない。そのプロセスで次のよりよい仮説も生まれるのです。

とにかく考え、自分なりの解答を出してみる作業。それだけで、一歩前に進むことができるのです。
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本書『日本を捨てよ』のテーマは、いわゆる「日本論」。

現状を打破するための問いとして私が注目したのは、「日本とは、あるいは日本人とはそもそも何だろう?」という一見すると脈絡のない本質的なものでした。

この疑問に答えようとすれば、どうしても次のような疑問と向き合わなければならなくなります。

なぜ日本人は大災害が起きても略奪や暴動に走らないのか?
なぜ日本人は政治家や官僚に文句を言うわりには、デモさえ起こさないのか?
海外へ脱出しようとしないのか?
ここ数年、若者たちの愛国心(あるいはナショナリズム)が強くなったように見えるのは気のせいか?
ほんとうに日本人なんて存在するのか?

私たちが抱える厄介な問題の背景には、こうした根源的な疑問がじつは横たわっています。それらを1つひとつ解決しようとする姿勢が、目の前の閉塞感を打ち破って、私たちがふたたび歩みを進めるための第一歩になるのです。

 

苫米地英人
(とまべち・ひでと)

機能脳科学者、ドクター苫米地ワークス代表

1959年、東京都生まれ。マサチューセッツ大学コミュニケーション学科ディベート専攻を経て、上智大学外国語学部英語学科(言語学専攻)を卒業。三菱地所株式会社に2年間勤務し休職。エール大学大学院計算機科学科・人工知能研究所と認知科学研究所で助手を務める。87年にカーネギーメロン大学に移籍(専攻は計算言語学)。同大学機械翻訳センター研究員、ATR自動翻訳電話研究所滞在研究員。その後、博士論文(哲学)提出。93年、徳島大学知能情報工学科助教授。95年、ジャストシステム基礎研究所所長。98年に退社。現在、コグニティブリサーチ・ラボ基礎研究所所長。角川春樹事務所顧問、南開大学(中国)客座教授、カーネギーメロン大学コンサルタント・CyLab兼任フェロー。

 

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