「戦死」のリアル
戦争の終結について全く考えていなかった東条首相。彼が、実際に兵士が戦地で戦死するとはどういうことなのかについて、リアルに想像していたとはとても思えない。
為政者であれば、兵士たちが戦場でどのような戦いを余儀なくされたか、そしてどのように戦死していったか、を事実として見つめなければならないだろう。
私はこれまで40年近く昭和のあの戦争に関わりを持った人たちの証言を聞いてきた。兵士たちの体験も詳細に確かめてきた。そして実感として味わったのは、第一次世界大戦で英国の海軍大臣だったチャーチルの吐いた言である。
毒ガスまで登場した戦場の悲惨さを嘆き、「これからの戦争は中央の安全地帯で作戦を練る参謀と、それに基づいて戦いを続ける兵士との残酷な二面性を持つ」と言ったが、まさにその通りになった。
一口に戦死といっても、いろいろなタイプがある。戦闘死、飢餓死、事故死、戦病死などがあり、太平洋戦争では240万の軍人、軍属、兵士などの戦死は7割近くが飢餓死だったとの説もあるほどだ。この死の様相についてそれがいかに悲惨だったかは兵士たちも書き残しているし、私自身も聞きただしている。
「戦友の死体にたちまち蛆がわく。蛆は傷口に群がり、やがて全身が蛆だらけになる。骨と皮だった死体が蛆虫で膨れ上がる。ああ自分も明日にはこうなるのかと愕然とする」(ニューギニア戦線で戦った兵士)といった証言は誰もが口にする。
「食べるものはまったくない。トカゲ、ミミズ、バッタ、とにかく口に入るものはなんでも食べた。バッタの取り合いでけんかも起こる。動くものはまず口に入れた。最後には蛆虫も食べた」(ガダルカナルでの兵士)、「水がなくわずかに道路にある泥水もすすった。泥水に顔を突っ込んで死んでいる兵隊もいた」(インパール戦線の兵士)。
人肉を食べる話などは、より具体的で、そして悲惨である。どの戦線でも現地の人々が飼っている家畜を取り上げ、むしゃぶりついたという。
「夜は我々の作った作物を盗みに来る友軍との間で戦闘も起こった」(フィリピン戦線での兵士)。
南方では飢餓死、そして蛆虫に食われていく戦友の死体について記したが、北方とて、その例に漏れない。手足の凍傷から壊疽になり、切断手術が行われる。麻酔などないから、兵士たちが押さえ込んだり、殴って意識を混濁させたりしたそうだ。そういう死の形は詳しく語られてはいない。
戦争死を語る態度
私がこれまで戦争死について多くの証言にふれた折に、兵士たちはいくつかの特徴ある態度を取った。戦友が亡くなった話をするとき、ある兵士はポケットの中に数珠を入れ、それを握り締めながら、話を進めていく。涙を流しつつ証言する者もいる。
インパール戦線で戦った兵士の多くは、この作戦の司令官の名が出た瞬間に取りみだし、「あんな軍人が畳の上で死んだことが許せない」と目の色を変えた者もいる。あるいは、ある参謀の名を挙げ、「あの軍人は仮病を使って病院船で内地に帰った」と告発する者もあった。
戦争で死ぬとは死体が悲惨な姿になることであり、死ぬまでの時間にしても弾丸が当たって一瞬で亡くなる者(これが一番いいという)もいれば、傷を負って戦場に放置されたままゆっくりと死んでいく者もいる。精神的に異常な言動に走る者も出てくる。
ある軍医の証言では、大隊長が精神に異常をきたしたケースがあり、その異様な言動にとまどった兵士たちが軍医に診断書を書かせ、そして縄で縛って、監禁した事件もあった。
もしそうしなければ、この大隊長はとんでもない命令を出しただろうというのだ。副官に斬りつけたり、兵士をスパイだと言い出して殺そうとしたりしていたのである。
こうした「もう一面」を知れば、軍事を生半可にかじった者が「日本の兵士は勇敢で優れている」などという巷説を持ち出して、たたえることは実は、大本営にあって作戦を考えていただけの参謀の責任から目をそらさせるトリックだと気づくであろう。
たとえばガダルカナル戦の終結を伝える「大本営発表(昭和18年2月9日19時)」の中で「昨年8月以降引き続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し激戦敢闘よく敵戦力を撃砕しつつありしがその目的を達成せるにより2月上旬同島を撤し他に転進せしめられたり(以下略)」はまったくのでたらめで、「敵に与えたる損害 人員2万5000以上」「我が方の損害 人員戦死及び戦病死 1万6734名」に至っては、米軍の戦死者が1000人、日本は2万4600人が真実であった。
私たちはこの戦死者の実像を見つめることが問われていると自覚すべきであろう。