人といると何となく気まずい。それは、幼少期のあなたと親の関係を反映している。それでは人間関係が上手くいかない人はどのように生きていけばいいだろうか。
幼少期に親から愛されなかったという理由で、現代のペストとも言える「嫌われたくない」病にかかり、大人になっても"愛されない悪循環"におちいる。
加藤諦三氏の名著『愛されなかった時どう生きるか』より、親、子供、恋人、友人…からまった人間関係をリセットして、のびのびと生きるにはどうしたらよいか、親からの愛を享受できなかった人に生きる勇気と自信を与える一説を紹介する。
※本稿は加藤諦三著『愛されなかった時どう生きるか』(PHP文庫)より一部抜粋・編集したものです。
「お人好し」は罪悪感の裏返しにすぎない
恩きせがましい親に育てられると、当然のことながら自分の存在が他人に喜ばれているという感情はもてない。
逆に自分という存在は他人にとって負担なのだ、という感じ方を心の底にこびりつかせてしまう。
だから心地よく他人と一緒にいることができない。他人といると気がひけてしまう。
自分の存在が相手に負担であると感じれば、相手に気がひけるのは当たりまえであろう。すると、相手に何かしてあげなければいられない気持になる。
相手の得になるようなことをすることによって、その居心地の悪さから逃れようとする。そのような人は、損することで気持がかえって安定する。
しかし損をしたという不快感は残るであろう。そうした意味ではどのようにしても他人と居心地良くいるということができない人なのであろう。
自分という存在が周囲にとって負担であると幼少期に感じるように強制された人は悲劇である。本人がもしお金をもっていれば、他人との関係において損をする。
相手に得をさせる。心理的に対等の取り引きができない。本人にお金のゆとりがなければただで労働を提供するだろう。
そして周囲からは「お人好し」として馬鹿にされる。
幼少期に親子関係で常に一方的に恩恵を施されたことを強調されていれば、相手とただ会っただけですでに相手に心理的な借りがある。
成長して大人になって人と会う。すると客観的にはまだ何の関係がなくても、心理的には恩恵を受けた側の心理になっているのである。
他人と一緒になることで幼少期に録画された親の恩きせがましい声や表情が心の中で再生されはじめる。
だからこそ相手が自分をいいように利用することに心理的に抵抗できないのである。
それで利用されてあとで怒りや憂うつや悲しみなどさまざまな不快感を味わう。他人の不当な要求にノーと言えない人はこの種の人である。
自分に自信がないと貧しい人間関係しかもてなくなる
このように自分に自信のない人は、どうしても他人にとりいってしまう。とりいってうまくいかないと、今度は強烈に反発する。
しかもとりいっていく相手というのが、まともな人間でないことが多い。たとえば他人をなめる人間、他人を嘲笑するような人間、そういった人間にとりいっていく。
おそらくそのように他人を嘲笑するような人間にとりいることで、他人への軽蔑を共有し、そのことで神経症的自尊心をたかめようとするのであろう。
自分に自信のない人は、他人をありのままに見ることができない。欠点のある人間に暖かい愛情の眼をそそぐことができない。
すぐに軽蔑する。軽蔑することで傷ついた神経症的な自尊心をいやそうとする。また、格好をつけているような人間、一見偉そうに見える人間にとりいる。
それは自分に自信がないと、どうしても他人が実際以上に偉く見えてしまうからである。このように自信のない人間は他人を過小評価したり、過大評価したりする。
しかしその迎合していった人間と仲間への軽蔑を共有したからといって、自分への軽蔑がなくなるわけではない。
自分に弱点がある。自信のない人間はその弱点を隠す。隠したからといって自信が出てくるわけではない。心の底では自分の弱点をよく知っている。
すると、その弱点をもっていない人間に出会うと、さーっと心がひかれていく。そのひかれる度合いは、その弱点から出てくる劣等感の強さに比例するであろう。
ところが、その人はたまたま或る弱点をもっていないというだけのことで、他の欠点はたくさんあるかも知れない。
自分に自信がない人間は格好をつけた偽者に心を奪われがちである。自信のない人の特徴は、本物と偽者との見分けがつかないということである。
本物とは情緒的に成熟し、人を愛する能力をもった人間ということである。偽者とは利己主義者で他人への思いやりも感謝の気持もないということである。
それだけに自信のない人は、貧しい人間関係しかもてない。貧しい人間関係しかもてないといっても、決して心の貧しい人にしか出会っていないというわけではない。
他人への思いやりのある心のやさしい人とも出会っているのである。しかしその人達との関係を築かないで、逆に一見立派そうに見える身勝手な人達にとりいってしまうのである。