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生き方

「死ぬのが怖い」と思うあなたへ...キリスト教の説く「永遠の命」とは

片柳弘史(イエズス会司祭),鈴木秀子(聖心会シスター)

2024年03月04日 公開

「死」は、誰にでも、必ず訪れるものです。避けられない「死」への恐怖を前に、人類は、宗教に心の救いを求めてきました。キリスト教の「死生観」について、聖心会のシスター鈴木とイエズス会の片柳神父が語りあいました。

 

どのような「死」を迎えようとも、使命は果たし終えている

【鈴木】「死は遠い先のこと」と思われている方が多いかもしれません。けれど、死は誰にでも、必ず訪れます。私は最近、若い人の突然の死に遭遇いたしました。

【片柳】私も葬儀や追悼ミサなどを介して多くの人の死に触れるのですが、そうした場面で必ずこうお伝えしています。「長年連れ添った人との『別離』は深い悲しみであり、胸が張り裂けるような思いでしょう。

けれど亡くなられた方のことを考えてみれば、残された私たちとは違う面が見えてきます。亡くなられた方は、この世界で神様から与えられた使命を果たし終えて、神様のもとへと迎えられたのです。

『あなたは、もう十分に頑張った。そろそろ天国に帰ってきなさい』と神様に迎えいれていただくのが『死』です。先に天国へ召されたお父さんやお母さん、友人たちも待っています。その人たちと再会し、永遠の安息に入る。それは大きな喜びです。

それなのに私たちがいつまでも悲しんでいたら、故人を心配させてしまいます。天国でいまその方に起こっていることを思い、そこに希望を抱いて乗り越えていきましょう」と――。

【鈴木】そうですね。その人が一生の使命を成し遂げて天国に入ったことを喜び、その人のおかげで幸せに生きられていることへの感謝とともに思い出すことが、一番の供養だと思います。

大切な人の死によって、私たちは「自分の人生にもいつか終わりがくる」ということを実感し、「今日一日を一生懸命に生きよう」「限りある人生をダラダラと生きてはもったいない」と心を引き締めて大切に生きることができます。それは、故人から私たちへの贈り物だと思うのです。

【片柳】シスターに聞いてみたいことがありまして。若くして亡くなること――例えば死産や、病で幼い子どもが亡くなってしまうことがあります。そこにはどのような意味があるのでしょうか。

【鈴木】例えば3歳で子どもを亡くされたお母さんやお父さんは、とても悲しいですよね。けれどその子も「3歳までの命」を神様から与えられたのです。その子の使命は、周りの人たちに「命の大切さを教えること」かもしれません。

「子どもを持つ家庭がどれほど大きな喜びに満たされるかを教えてくれること」かもしれません。いつ、どのように死を迎えようとも、その人はその人の使命を全うしてこの世を去っていくのだと思います。

【片柳】そうですよね。この質問をされるといつも心苦しくて......。けれど、たとえ死産であっても、その子を宿した数カ月の間にいただいた愛やぬくもりに感謝をしていくということ。

あるいはたとえ10年しか一緒にいられなかったとしても、「10年しか生きられなかった」と思えば悲しみに押しつぶされてしまうけれど、「10年だけれどこの子と一緒に生きられた」と思って、その時間を「宝」にしていくことが大切だと思うのです。そうしているうちに、その子の命に大きな意味が見えてくるのではないでしょうか。

【鈴木】亡くなっていく人たちの「良さ」というものは、この世で、たくさんの人に分散して残っていきます。その人が生前に示してくれた優しさを、思いがけず周囲の人から受け取ることがあるのです。

「ああ、亡き人が同じように優しくしてくれた」「亡き人もこんなふうに語りかけてくれた」など、その都度、思い出されます。亡き人は、消えてなくなってしまうわけではありません。人間は深いところでみんな結ばれていて、お互いが付き合うようにできているのだと思います。

 

悲痛な事故で子を死なせてしまった母への「許し」

【片柳】私は刑務所で働いているのですが、子どもを悲痛な事故で死なせてしまったお母さんがいました。その方は、「死んだ子は私のことを恨んでいるに違いない」「私はひどい人間だ。幸せになる資格がない」と、自分を責め続けて苦しんでいました。

【鈴木】それは間違った考えですね。だって、親は自分の子どもがどんなに馬鹿げた失敗をしても、絶対に許しますよね。「馬鹿なことをして」と怒りながらも、深いところでは愛とともに子どもを許しているのです。それは神様も同じです。

「自分なんて馬鹿だ、駄目だ」「ひどいことを言っちゃったから、自分なんて生きる甲斐がない」などと考えることほど、傲慢なことはないと思います。失敗をしたことで、たくさんの人の温かさも体験できたでしょう。弱い自分でさえも、神様は生かし続けてくれています。

失った子どもの分まで、与えられている命に感謝をして、より良く生きて、他の誰かを喜ばせることで命を輝かせていく――それが一番です。神様は、絶対に許してくださっています。

【片柳】はい。「お子さんは、天国で神様と一緒にいるのだから安心してください」「お母さんが、お母さんなりに精いっぱい頑張っていたことを、お子さんは必ずわかってくれていますよ」とお伝えしています。

もちろん失敗したことは悲しくて残念なことではあるけれど、子どもも神様も、すべてをわかって赦してくださっています。心配する必要はありません。むしろ「幸せになる資格がない」などといって自分を責めたりしたら、逆にお子さんを、そして神様を悲しませることになります。

 

死は「恐怖」ではない――「愛」そして「光」である

【鈴木】私は、死後は神様のもとで「完全な幸せ」に入れると思っているんです。だから生きている間は先のことは心配せずに、神様の慈しみの中に委ねるのがよいと思います。

「死は怖い」というイメージを持つ人がいますが、そうではなくて、親が子どもを許すように、神様は、どんなに悪いことをしても許してくださいます。その大きな「愛」に焦点を合わせて生きていくことが大切だと思うのです。

もし「死ぬのが怖い」と思ったら、「人間の弱さゆえに『死ぬのが怖い』と思うけれども、その弱さをも超える『大海のような神様の愛』に包まれてあの世にいくのだから大丈夫」と気持ちを切り替える訓練をしていくことが大事です。「生きることは訓練」です。自分自身を、育てて、直していく――。

【片柳】「死」というと、闇に飲み込まれて消えてしまうような恐ろしいイメージがありますよね。キリスト教は、むしろそこに待っているのは「光」であるという考え方です。

「光に包まれて、新しい命に生まれ変わっていく」というイメージ。死の先には、私たちには想像もつかないほどの大きな喜びがある。神様が、無限の愛の中に迎え入れてくださるということです。

【鈴木】死のときに、思いがけないほどの大きな愛で包まれる――それが体験できると。

【片柳】はい。そこに、死の恐れを乗り越えていく力、キリスト教のもたらす救いがあると思います。

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