<<看護師かつ、真言宗の僧侶である玉置妙憂さん。もともとは看護学校で教鞭を取っていた玉置さん。カメラマンだった夫のがんが再発、そしてその死を看取った。その経験から仏門を志し現在に至っている。
看護師でもある女性僧侶として“医療と宗教"どちらにも偏らない「人生をしっかり太く生きる」そのメッセージは多くの人の感銘を集めている。
ここでは、著書『困ったら、やめる。迷ったら、離れる。』から、玉置さんが考える「看取り」と「死後」について記した一節を紹介する。>>
※本稿は玉置妙憂著『困ったら、やめる。迷ったら、離れる。』(大和出版刊)より一部抜粋・編集したものです。
「呼吸を合わせる」だけでも看取りになります
死は、誰にでも平等にやってきます。
あなたにも、私にも、そして身近にいる大事な人にも。
あの人は、もう寝ているだけになってしまった。意識もなく、話もできない。命が少しずつ尽きていくのを、ただ見ていることしかできない。
いわゆる「看取り」の時です。
そんな時に何ができるのか、どうすればよいのか。
「妙憂さんは看護師さんだから、看取りには慣れていますよね」
確かにその通りです。しかし私がこれまで経験してきたのは、あくまでも病院で迎える患者さんの看取りであり、患者さんの死。身内の看取りとは、やはり異なるものです。
私は2011年に、夫をガンで亡くしています。
本人の希望で積極的な治療は行わず、在宅医療をしていましたから、日に日に枯れていく夫を目の当たりにしていました。固形物を食べられなくなり、流動食も難しくなり、それでも大好きなお酒だけは欠かさず、徘徊を繰り返し、最後は寝てばかりいるようになりました。
そうして看取りの時期になった時、私がやっていたのは、
「ただ一緒にいること」
そして、
「呼吸を合わせる」
ことでした。
傍にいて夫を見ていると、いろいろな呼吸をしています。
スースーと音を立てている時もあれば、スーとひと呼吸した後にしばらく間が空いて、ドキッとすることもありました。
それでもとにかく、自分の呼吸を夫の呼吸に合わせながら、同じ空間にいるのです。
私が呼吸をしたからといって夫がそれに合わせて呼吸をするわけはないし、彼の呼吸にひたすら私が合わせているだけなのですが、なんだか「共同作業」をしているような感じがありました。
「いま、ここに一緒にいるよね」
ということを感じられる。
一緒に生きていると感じられる。そんなことを本当に実感できる作業でした。
命が尽きる瞬間まで何かしてあげたい、何かせずにはいられないと、体をさすったり、好きなものを食べさせたりしたくなる気持ちはよくわかります。
それもひとつの素晴らしい看取りです。
ただ呼吸を合わせるだけ。これもまた立派な看取りであり、一瞬一瞬を「一緒に生きている」と感じられるでしょう。