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生き方

哲学者が親の介護で理解した「孤独を抜けだせない人」の一つの特徴

岸見一郎(哲学者)

2024年03月26日 公開

誰しもが大なり小なり、生きることに苦痛を感じているものです。時には周囲にその苦しみを理解して貰えず、孤独を抱えることもあるでしょう。しかし、「相手に理解される」ことばかり望んでいても問題は解消されません。かえって孤立する可能性も高めてしまうのです。哲学者の岸見一郎さんが語ります。

※本稿は、月刊誌『PHP』2024年3月号より、一部編集・抜粋したものです。。

 

孤立しないために大切なこと

もしも人がこの世界にただ一人で生きているのであれば、孤独を感じることはないでしょう。

しかし、実際には一人で生きているのではないので、どこかに誰かがいる限り、他者のことを思って孤独を感じることがあります。他者とつながっていると感じられたら孤独であると感じることはないでしょうが、どのように人とつながるかが問題です。

キム・ヨンスの小説に、次のような一節があります。

「私は母のおかげで、生と死の間には苦痛があるということを知った。まったく個人的な苦痛。母が死んだその瞬間まで、私は意識のない母の手を撫でながら声が嗄れるまで愛しているといったが、その最後の瞬間にも、私は母の苦痛だけは理解できなかった。

苦痛よりは死の方が理解しやすいようで、いざ母が息を引き取った後は、それまで病床に横たわっていた母との距離感はなくなった。共感できなかったという点で、苦痛は明らかに母と私の間を隔てていたが、死はそれほどではなかった」(「君が誰であれ、どれほど孤独であれ」)

病者の感じる苦痛は、ただ身体の痛みだけではありません。腕に注射針を刺される時の痛みであれば耐えられます。

しかし、身体のどこかに絶えず痛みがあったり、身体を自由に動かせないまま病床に長くいたりすれば、これからの人生のことを考えないわけにいかなくなります。すぐに退院できると医師からいわれていても、このまま死ぬのではないかというような不安に襲われることもあります。

そのような時、身体の痛みは生きることの苦しみ、苦痛になります。この苦痛は病気になった時に顕在化しますが、病気にならなくても生きることは苦しいのです。「生と死の間には苦痛がある」という時の苦痛は、生きる苦痛です。

 

理解も共感もされない苦しさ

私は脳梗塞を患っていた母の看病をしたことがあります。母は意識がありませんでしたが、母の苦痛は私の想像を絶するものだったでしょう。父の介護もしました。父は今し方のことも忘れるようになりました。そればかりか、母のことまで思い出せなくなりました。

その父の苦痛を私はどれほど理解できていただろうかと今も思います。怖いといって震えていた父は、自分の苦痛を私に伝えられず、もどかしい思いをしていたに違いありません。

キム・ヨンスの小説では、娘は意識がない母親の苦痛を理解できなかったといっていますが、意識がなかったから理解できなかったのではありません。意識があっても苦痛を理解するのは容易ではありません。親の方も、意識があっても自分の苦痛が娘に理解されないと思ったでしょう。

この親子が置かれているような状況でなくても、他者の苦痛に共感し理解することは容易ではありません。苦痛は「個人的」なものだからです。

苦痛よりも死の方が理解しやすいというのは、死は理解できるという意味ではありません。他者の死は知っていても、自分が死ねばどうなるかを知っている人はいません。しかし、誰もが死ぬという意味で死は普遍的なものなので、人によって違う、つまり個人的な苦痛よりは理解できるという意味です。

キム・ヨンスの別の小説の言葉を引くと、苦痛と「私たち」は同時に存在できません。「私たち」が同じ苦痛を感じることはできないということです。「通じ合えば苦痛はない」(「月に行ったコメディアン」)のです。

しかし、苦痛は「個人的」なものであり、身体の痛みですら他者に理解されません。まして、生きる苦痛は他者に理解されず、共感もされません。自分も他者の苦痛を理解できません。このように感じる時に、他者との間に距離を感じます。この距離感が「孤独」なのです。

 

孤独は自力で克服する

自分の苦痛を他者が理解し、援助することを当然だと思う人がいます。そのような人は自分が苦しいことをいわば人に見せつけます。

そうすると、まわりの人は放っておくわけにはいかないので援助してくれるでしょうが、それはあくまでも「他者の好意」であることを知りません。だから、援助されなければ他者との距離を感じ、孤独を託ちます。

他者を自分に援助させることで孤独を感じなくなったとしても、自分の苦痛を自分で解決しようとしないで他者に援助させようとする支配的な人のもとには、やがて誰もいなくなり、本当に孤独になるでしょう。

自分の苦痛が他者から理解されず孤独を感じても、孤独は自分で克服するしかないのです。他者に自分の苦痛を理解してもらおうと思わないというのが、孤独を克服するための一つの方法です。

孤独、つまり他者に自分の苦痛が理解されないことは、自由に生きていることの証です。他者と同じような生き方をすれば、生きる苦痛を感じることはなく、他者とつながっていると感じられるでしょう。

そのようなつながりは他者と表面的にはよい関係を築くことを可能にしますが、それがもしも自分の信念を曲げてまで人に合わせることで形成される関係であるなら、偽りのものといわなければなりません。

 

他者に助けを求め、他者の力になる

しかし、自由に生きることは、誰にも理解されなくてもいいのだと孤高を持することではありません。他者に理解してもらおうと思わないと書きましたが、厳密にいえば、他者が自分の苦痛を理解することを当然と思わないという意味です。

他者に理解されることを期待せず、他者に合わせずに自由に生きようと思っても、他者の援助が必要な時はたしかにあります。そのような時は援助を求めてもいいし、求めなければなりません。

他方、他者の力にならなければなりません。自分は他の人に理解されようと思わず自力で困難を解決しようとし、他方、他者から援助を求められたら努めて援助したい。皆でなくても、多くの人がそう思うようになると、世界はずいぶんと生きやすくなるでしょう。

他者に合わせなければ、孤独になるかもしれません。しかし、自分と同じように他者の困難を理解し援助しようとする人がいるかぎり、孤独になっても孤立することはないでしょう。皆に理解されようと思わず、自分を理解し援助しようとしてくれる人とだけつながるべきです。

苦痛は個人的なものなので、他者の苦痛を理解するのは困難ですが、自分の苦痛に無関心ではなく、できることがあれば援助しようとしてくれる人はいます。その人とつながっていると思えれば、そのことが孤独を克服する力になるのです。

 

著者紹介

岸見一郎(きしみ・いちろう)

哲学者

1956年、京都府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。専門の哲学(西洋古典哲学、とくにプラトン哲学)と並行して、89年からアドラー心理学を研究。精力的にアドラー心理学やギリシア哲学の翻訳・執筆・講演活動を行なう。著書に『アドラー心理学入門』(ベスト新書)やベストセラーとなった『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)など多数。

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