写真:下村一喜
戦後最大のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』の著者であり、芸能界のレジェンド的な存在である黒柳徹子さん。これまでいろいろな人に会ってわかったのが、「世の中の『本物』と言われる人には、必ず根底に深い愛とか優しさがある」ということだそうです。
6歳で小学校を退学になった黒柳徹子さんは、母が見つけてくれた自由な校風のトモエ学園に転入します。
そこで出合った『窓ぎわのトットちゃん』にも登場する校長先生の言葉は、今でも黒柳徹子さんの心の支えになっているといいます。
※本稿は、黒柳徹子著『本物には愛がある』(PHP文庫)から一部抜粋・編集したものです。
「話したいこと話してごらん、全部」
それで校長先生に会うことになって、私、住所とか名前とかを聞かれるんだと思ったんですよ。それとね、この人は校長先生ではなく駅の人かもしれないと思って。電車をいっぱい持っているから。
最初の日、「校長先生か、駅の人か、どっち?」って聞いたら、「あ、校長先生だよ」って、校長室に入ったんです。そこで、「私、この学校に入りたいの」って言ったら、母が、それは先生がお決めになることだからって。
そしたら「お母様は、お帰りください」と。私の前に校長先生が座って、「話したいこと話してごらん、全部」っておっしゃったんです。もう、びっくりしちゃって。住所とか言うんだと思ったけど、それを言わなくていいのかと思って。
当時、テープレコーダーがあったら、録っておきたかったなって思います。6歳の女の子が、いったい何を話したかを知りたいんですよねえ。家にいた犬のこととか、まあ、いろいろな話をしたと思うんですけどね。
朝8時から昼の12時まで、4時間ずっと話し続けた
それで、とうとう最後に話がなくなって、もうね、どうしようって思ったんです。
この人ともうお別れだわって思うのは、生涯男の人とは、そういうのはなかったんですけど、そのときは、もうこれで終わりになっちゃうのか...と思って。本当に話がなかったんです。
で、その日の洋服は母が作ったものじゃなくて、買った洋服だったんです。ほかのはビリビリになっちゃってて。その洋服の襟の花の刺繡の色が、嫌いだって母は言っていたんですよ。
だから襟を持って「ママね、この色嫌いなんだって!」って言ったらね、生涯で話すことが何もなくなった。こうやって襟をつかんだまんま、「それで終わりかい?」って先生がおっしゃったから、「ええ」って。
「じゃあみんな、弁当食ってるから行こう!」って。それで、トモエ学園で有名なお弁当の時間のところに行ったんですけど。
あとで母に、学校に何時に行ったのかって聞いたら、8時だって言うんですよ。お弁当の時間は12時でしょ。すると4時間、6歳の子の話をずうっと聞いてくださって、この人はいい大人だって思いました。瞬間的に。
「いいかい、みんな一緒だよ、一緒にやるんだよ」
『窓ぎわのトットちゃん』は、校長先生に捧げたくて書いたんです。話を聞いてくださった、あの信頼感。
いま、学校の先生も時間がないと思いますが、最初に子どもの話をそういうふうに聞いてあげられたら子どもは気持ちを開いて、「この人は、いい大人だ。味方だ」ときっと感じるに違いないと思うんですね。そういう時間がない、いまの学校は残念と思いますね。
子どもは敏感ですから、あのとき、もし校長先生が紙をめくったり、電話をかけたりしたら、私は話をすぐやめたと思います。
でも「ふーん、それで?」「ほう、それから?」とずっと聞いてくださったので、本当に聞く気があるんだなと、私も一生懸命話したんですね。だから、そのときから校長先生を大好きになりました。
――では、楽しい小学校時代を?
ええ、そうですね。私、いつも思うんですよ。障害を持った子が、トットちゃんの学校に何人もいました。校長先生は一度も「手を貸してあげなさい」「助けてあげなさい」っておっしゃったことはないんです。「いいかい、みんな一緒だよ、一緒にやるんだよ」って。
そうすると、子どもでも一緒にやるんだと思うと、どうすればいいか一生懸命考えます。私たち、ずいぶん遠くまで臨海学校で、ずっと向こうの静岡の土肥なんていうところに行ったりしましたから。
そういうときにはどうすればいいかっていうのを、自分たちで考えて一緒にやっていくってことを、子どものときに植えつけられたので。何をやるにも。
だから私はいま、聾啞者の劇団も持っていますけど。私たちは平気で劇場や音楽会に行くのに、耳の聞こえない人たちは楽しみがないわけでしょ。
だから、せめて手話でやる芝居なんかを見にいけたらいいじゃないかって。それは一緒にやろうっていう気持ちです。