年齢を重ねて自分自身のために生きる時間が長くなったとき、私たちは様々な「縛り」から解放されるチャンスを迎えます。ストレスを感じる人間関係、見栄や体裁...。自分を縛る存在を捨てて、「本当の人生」を送るには? 書籍『本当の人生』(PHP研究所)より、精神科医の和田秀樹さんが、自身の経験を交えながら語ります。
※本稿は、和田秀樹著『本当の人生』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
ストレスかどうかを基準にして、人づきあいを考える
私としては、偽りの人生とか、社会的な人生を終え、自分のために生きる時期がきたとき、昔よりはるかに長い、20年から30年の人生が残されているわけですから、がまんや妥協や束縛がストレスになるのであれば、それがこれからずっと続くよ、と言いたいわけです。
会社生活だって、がまんしてきたのだから、やはり勝手を知った相手である配偶者や子どもとの関係を続けていたいと思うのなら、その程度のがまんであれば耐えられるのなら、それもありだと思います。
ただ、老年精神科医という仕事を長くやっていると、歳をとるほどストレスの悪影響は大きく、免疫機能が下がって、がんになりやすくなったり、感染症にかかりやすくなったり、それが重症化しやすくなったりするのは事実です。
あるいは、ストレスでうつ病になることも若い頃より多いし、最近の研究では心・脳血管障害や高血圧、糖尿病のリスクを高めることもわかっています。要するに歳をとるほどストレスが身体や心に与える害が大きくなることは知っておいていいと思います。
そういう意味で、ストレスになるような人間関係は、切れる限り切ったほうがいいでしょう。社会生活を送っていた時代は、会社の人間関係など、多少ストレスフルでも切りたくても切れないものが多々あったと思います。社会生活を離れた後も、近所づきあいとか、昔の仲間とか、切りにくい関係はあるかもしれません。
でも、それが疲れるとか、ストレスに感じるのなら、本当の人生に入ったときがいいチャンスなのですから、切っていいのではないでしょうか?
近所づきあいが、押し付けがましかったり、暗黙のルールを押し付けられて疲れるのなら、切ってしまったところで、せいぜい近所で変人扱いされるくらいでしょう。その押し付けがましい人を実は嫌がっている人がいれば、その人だけは声をかけてくれるかもしれません。
会社をやめて、あるいは、ママ友が去っていって、昔の仲間たちと離れてしまうと孤独に陥ってしまい、再びその人たちの中に入っていくと、会話がかみ合わなかったりして、合わせるのがストレスなんてこともあるでしょう。
確かに昔の仲間と会っていれば、その頃の自分に戻れて、普段と違う幸せな気分になれることもあるでしょう。まさに本当の自分に戻る体験ができる人もいるでしょう。
一方で、これまで生きてきた人生が違いすぎて、合わせるのに苦労するということもあるでしょう。自分が運よく成功者になっているのに、うまくいかなかった相手に気を使うのが疲れることもあれば、相手が成功者になっていて、そのレベルについていくのが大変ということもあるかもしれません。
本当の自分としてつきあいたいのに、相手が「偽りの自己」の世界を引きずっていて、社会的な成功を自慢したり、子どもの学歴をひけらかしたり、逆に、こちらに余計な嫉妬をしてくることもよくある話です。
そういう関係を無理して続ける必要もあるかもしれません。しかし、残りの人生は長いのですから、こちらが引きこもってさえいなければ、絶対とは言いませんが、かなりの確率で、気の合う人間とか、この人といると楽だ、一緒にいて楽しいという人間と出会えるような気がします。インターネットの時代だからなおのことでしょう。
とくに配偶者や子どもとの関係を維持している人は、無理な人づきあいは必要ありません。配偶者と離別や別居を選んだ、子どもとの関係が疎遠、子どもが結婚してからほとんど連絡を取らなくなったというような人の場合、孤独にはなりたくないから、どんな人間関係でも維持しておきたいと思う人もいるかもしれません。
それで適当に合わせている人間関係でも、それなりに楽しめるなら、ある種の娯楽のようなものですから、わざわざやめてしまえとは言いません。
要するにそれがストレスかどうかを基準にすればいいのです。そういうつきあいから家に戻って一人になったほうがずっと楽なら、あなたは孤独に強いということでしょうし、そのつきあいがしんどいわけですから、無理に続ける必要がないということでしょう。
要するに、「偽りの自己」だったときの感覚での人づきあい、つまり偽りの人づきあいはやめていいというのが私の提言です。
過去を捨てて新たな人生を送る
今を楽しむ際に、過去を捨てるということは重要なポイントです。もちろん、過去を完全に切り離すことは困難でしょうが、過去につまらないこだわりを持っていると、本当の自分として生きることへの障壁になることは多いと思います。
大企業で役員になり、運転手付きの車に乗っていた人が、本当は車の運転が好きだから残りの人生はタクシードライバーをやりたいという話になれば、周囲の余計な反対も受けそうですし、運転そのものは好きでも客に偉そうにされるとケンカになってしまうかもしれません。
職業に貴賤はないと言いますが、実際は、高い地位を得た多くの人にとって、それがプライドの源泉だったりするので、それが得られなかった人をつい見下してしまうようなことがあるのでしょう。
新しいパートナーを選ぶ際も格差婚で、かつ男のほうがずっと年上で、元の社会的地位が高かったりすると、男性側の子どもたちが反対したり、周囲が金目当てと陰口を叩いたりすることは往々にしてあるようです。
逆に、貧しかった人でも、一生懸命貯金をしたおかげでとか、予想外に家が高く売れてとかの理由で、それなりの贅沢ができる金が得られたとしましょう。
資本主義の世の中なのですから、堂々とリッチな暮らしをしたり、ファーストクラスで海外旅行に出かけたり、高級外車などを買えばいいと思うのですが、何か物怖じをしたり、もったいない感じがして、そこまでの贅沢ができないこともままあるようです。
ギャンブルなどで勝ったときは、気が大きくなって、思い切って豪遊というような話はあるようですが、自分のために苦労してつくった金だと使えないというのは、何か矛盾がある気がします。
贅沢をして、思い切り楽しんで、最期は満足だったと思えるなら、終わり良ければすべてよしと思えるはずなのですが、貧乏していた頃の苦労が染みついてしまっていて、お金が使えないというのであれば、こんなにもったいないことはない気がします。
過去との比較という点では、そのせいで、幸せが感じられないということもあります。人間というのは、過去と比較して、自分が幸せだとか不幸だとか感じる性向があるようです。
ノーベル経済学賞を獲ったダニエル・カーネマンという心理学者は、人間の幸福度というのは、資産の総額ではなく、参照点との比較によって決まると論じました。
10億円持っていても、たった1万円損をしただけで、参照点より資産が減っているので不幸に感じるというわけです。逆に全財産が1000円の人が、自動販売機のくじで100円のジュースを当てただけでも幸せな気分になります。
かなりの資産を残し、何億円も入居金を払ったうえに、月に何十万円も管理費を払い、ケアスタッフも多く雇われていて、毎日5000円くらいの食事が出るような超高級老人ホームに入った、元大企業のオーナー社長にこの理論を当てはめて考えてみましょう。
それだけすばらしい部屋に住み、アメニティもよく、スタッフにも親切にされ、比較的豪華な食事が出るわけですが、現役時代の豪邸や現役時代にいろいろな人にヘコヘコされていた記憶や、現役時代に食べていた一流料亭やフレンチなどの味と比べると落ちると思うのではないでしょうか?
過去の記憶が邪魔をして、それが参照点になっていると、それより落ちたと思うと幸せを感じるどころか、不幸せだと思えてしまうわけです。逆に、子どもの頃からずっと貧乏で、大した学歴も得られず、ずっとこき使われてきた割には薄給で、社会的地位も低いため、どちらかというと見下され続けてきた人生を送ってきた人はどうでしょうか?
公費で入れる特別養護老人ホームで、スタッフに親切にされ(最近の高齢者施設の職員は相手の元の身分に関係なく親切です)、3品くらいのおかずに、ちゃんと具の入ったお味噌汁がつくだけで、「こんなにヨボヨボになってから、みんなに親切にされ、こんな贅沢な食事をいただけるなんて」と幸せを感じる可能性が大です。
ただ、これも程度問題で、同じ不幸でも、虐待や暴行などの過去の記憶は、トラウマというような形で、一生、その人を苦しめ続けることがかなりの頻度で起こります。
トラウマのある人に過去を断ち切れというのは、かなり難しい話なのですが、そうでない場合は、第二の人生を「本当の人生」にするためにも、やはり過去を捨てたほうがいいような気がします。
過去の栄光を心の支えにしたり、よすがにする人は少なくないのでしょうが、これからの人生が本当の人生なのだから、いろいろと新しい体験をしてみようとか、思い切り楽しもうとか、何かをやり遂げようとするほうが、新たな気分で新たな人生を送れるのではないでしょうか?