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減税に抗する「職業議員」との激闘記

河村たかし(名古屋市長)

2011年02月07日 公開 2022年12月22日 更新

"まず、わが身を削れ

 平成22年12月8日、私が提出した、市民税10%減税を恒久化する条例案と、市議会議員報酬を1,630万円から800万円に半減する条例案が、名古屋市議会によって否決された。とりわけ市民税10%減税は、私が市長に立候補したときに名古屋市民の皆さんに訴えた「一丁目一番地」の政策。それが否定されてしまったのである。

 10%の市民税減税は、平成22年度から恒久減税として実施したかったが、市議会が同年3月に条例を「平成22年度に限って実施」と修正してしまっていた。今回それを覆すどころか、そもそも否決されてしまった。平成23年度に減税を継続させることが、これで不可能になった。

 なぜ、こんなことになったのか。そしてなぜ、私はこの点にこだわって戦いを続けているのか。いま、あらためて考えを述べたいと思う。

 まず、減税についてである。なぜ減税をせねばならないのか。そう問われたとき、私は「民間の企業は、どこも厳しい価格競争のなかで、知恵と汗を振り絞ってコストダウンを実現しているのに、行政だけ税金を取れるのをいいことに、のうのうとしていることが許されるのですか」と答えることにしている。私も30年余り、厳しい価格競争のなかで家業である古紙業の商売をやってきたが、その間、「財源がありませんので、値引きできません」などといったことはない。当たり前だ。そんなことをいったら、取引先にも相手にされなくなり、たちまち会社は潰れてしまう。

 行政も、まずは減税を行なうことによって、わが身を削り、行財政改革を実現していくべきなのだ。いま、民主党が国政に「事業仕分け」を導入しているが、そもそも、どこの企業がそんな手法を導入しているだろうか。商売は、そのように甘いものではない。商売上の値引きは、いってみれば毎日減税をしているようなものである。収入が減るとなれば、四の五のいわずにそれに対応せねばならなくなるのだ。

 さらにいえば、行政の無駄遣いがどこにあるか、いちばん知っているのは、担当部局の部局長であって、第三者の仕分け人ではありえない。就任当初、市役所のある職員と懇談していたら、「市長が本当に減税をやり、しかもその分を市民に返すというので、それならひと肌脱ごうと思った。減税がなかったらできなかったですよ」と話してくれた。人件費にしても、外郭団体の無駄遣いにしても、これまでなら、「まあ、ええわ」で済ませてきたものを見直してくれたというのである。実際に、平成22年度の市民税減税によって161億円の収入減となったのだが、市の職員たちは行財政改革によって185億円の財源を生み出したのである。

 しかも、それはよりよい公共サービス実施との合わせ技であった。名古屋市は、500円の「ワンコインがん検診」や、市交通局の「学生定期券」(自宅から学校の最短経路に限らず、アルバイトや習い事等の経路など、自由な区間で学生定期券を買える制度)、水道料金の最大1割値下げなどの行政サービス拡充を、減税と両立させてきた。行政も、民間の商売と同じように、税金を減らしつつ、よりよい公共サービスを提供することが重要なのだ。

 このようなことをいうと、名古屋市が平成20年以降、市債の起債を増やしたことをとらえて、「借金を増やして減税の成果を語るとは何事だ」と批判する人が出てくる。待ってほしい。現在、地方財政法で、地方自治体が市民税減税を行なう場合、国が設定している標準税率(6%)に満たない場合には総務大臣の許可が必要だと決められている。借金に頼って減税をすることを防ぐためだが、名古屋市は「減税による減収額を上回る行財政改革の取り組みを予定しており、世代間の負担公平に一定の配慮がなされている」と認められて、起債しているのだ。

 それに、名古屋市の市債残高は、平成20年から平成22年までで3.16%増加しているが、政令指定都市合計(平成19年度以降になった団体を除く)では、同期間に市債残高は3.2%増加している。つまり、名古屋市だけでなく政令指定都市全体も増加しているのだ。これは当たり前の話で、これだけ経済が厳しいのだから、民間経済を活性化させるためにも、市債を増やしてでも事業をしていかねばならないのである。

 そもそも、不景気になって民間の投資マインドが冷え込んでしまうと、「貯蓄過剰」の状況が生まれてしまう。たとえば、最近の全国銀行の預貸率は73%ほどだという。預貸率とは、集めた預金などに対する、貸出し金額の割合のことだから、簡単にいえば、100万円の預金を集めたのに、73万円しか民間に貸し出せなかった、ということである。残りの27万円は貸し先がないという状況なのだ。

 このような場合には政府が、そのお金を借りて有効に使うようにしなければ、お金の行き先がなくなって金詰まりの状況になってしまう。

 これが、いま国債の発行が増えている状況の裏側である。つまり国債発行のかたちで、民間で行き先がなくなっているお金を使わなければ、経済はますます冷え込んでしまうのだ。それも考えずに、ただただ「日本は財政危機」と危機を煽りつづけるのは大きな間違いなのである。

 ギリシャの破綻を例として財政危機を強調する議論もあるが、それも間違いだ。ギリシャは国債を発行して「公務員天国をつくった」から潰れたのであって、「国債を発行したから潰れた」のではない。さらによくいわれるように、ギリシャは国債を外国に買ってもらっていたのに対し、日本は国内の貯蓄過剰分で賄っているのだから、その性質もまったく異なる。

 日本の官僚が、「いま日本には約900兆円の借金がある。この状況の改善が急務で、増税こそが正義だ」と国民を洗脳しているが、そんなことは嘘八百だ。

 経済回復させるためには、まず「減税」を実現させて、行財政のムダを省くとともに、民間の手元に残るお金を増やして経済を活性化させる。そして民間の貯蓄過剰分を国や自治体の債券で吸収し、有効に使う(公務員天国をつくるのではなく、経済活性化のために使う)ことによって、活発なお金の流れを取り戻すことが肝要なのである。

議員が「悪い王様」に!

 名古屋市は、率先して「減税」に取り組もうとしたのに、なぜ市議会が反対したのか。ここに、いまの日本の政治の大きな問題点がある。議員が「職業化」して税金議員になってしまっていることが、大変な弊害をもたらしているのである。

 議員たちが「減税」に反対するのは、自分たちの既得権と真っ正面からぶつかるからである。まず、減税をすると、議員たちが使い途を決められる金額が減ってしまう。これは議員たちからすれば自分たちの権力の源泉の一部を手放さなければならないことになる。さらに、自分たちの報酬が減ることにもつながる。市の職員たちが身を削って行財政改革を進めているのに、議員だけが高額の報酬を貰いつづけるわけにはいかなくなるからだ。

 議員の既得権固守を象徴する、もう一つの出来事が、名古屋で進めようとしている「地域委員会」への抵抗である。

 これは名古屋市内の小学校の学区単位で、ボランティアの地域委員を住民の投票で選出し、彼らに地域の課題とその解決策を検討してもらい、実際にその取り組みに対して予算付けをしていくものである。「住民が協力して、自らの手で自分たちの町をよりよくしていく」ことで、地域コミュニティの活性化を図ろうというプランだ。すでに平成22年にモデル事業を行ない、「歴史的建造物を活かしたまちづくり」「健康パトロール」「安心安全なまちづくり」など、創意工夫あふれる取り組みがなされるようになった。

 だが、市議会はこの事業を拡大させる予算案にも反対をした。議員たちからすれば、これまでは地域で選ばれるのは自分たちだけだったのに、そこに地域委員が現われた。考えようによっては、地域委員は、いつ自分の対抗馬になるかもわからない。家業を守るために、地域の民主主義の芽をつぶそうとするのである。

 歴史的にみれば議会制の始まりは、かつて国王が勝手な税金を掛けてくるのに市民たちが対抗したことにあったはずだ。だが、日本では議員が職業になり、家業化することで、より税金を安くするにはどうするかを考えるのではなく、どうすれば自らの報酬と地位を守れるかということばかりに頭を働かせるようになってしまった。議員自体が、「悪い王様」と変わらぬ立場になってしまったのである。

 私が議員報酬の半減を訴えたのは、このような問題意識があったからだ。議員はパブリックサーバント(公僕)であり、市民の給与と同じ水準でやるべきではないか、と考えたのである。

 まずは「隗より始めよ」で、市長の給与を年額2,700万円から800万円に減らし、さらに4年ごとに4,220万円もらえる退職金を廃止した。そのうえで、議員の報酬も800万円にしようとしたのだが、それが猛烈な抵抗に遭うことになった。

 日本は議員の数が多すぎるうえに、報酬が高すぎる。名古屋市は人口約226万人で議員定数75人、報酬年額(制度値)は約1,630万円。だが、シカゴは人口約283万人で、議員定数は50人、報酬年額は約910万円。ロンドンは人口約756万人で議員定数は25人、報酬年額は約690万円である。バンクーバーは、議員の給与を市内の平均所得に合わせているという。

 このようなデータを示しても、「議員は選挙にお金がかかる。事務所にも経費がかかる」などという人がいる。しかし、そのようなものは本来、寄付金で賄うべきものではないか。

 また、議員の報酬を減らすと庶民が議員になりづらくなる、などという議論もあるが、それも大きな間違いだ。海外のボランティア議員は、ボランティアだからこそ多選せずに早く辞め、そのぶん次々に庶民が議員になっていく。しかし日本では、議員が家業化しているので高齢になるまで選挙に出馬しつづけ、やがて世襲して議席を占拠しつづける。政治に参加できる人が結果的に限られてしまうのだ。

 現実問題として、現在、お金も何もなくて選挙に勝つケースが、どれほどあるだろうか。新鮮感があるためか、ただ若いというだけで議員に当選する最近の風潮もあるが、それはそれで問題だろう。社会経験が未熟なのに正しい政治ができるのか、疑問な点も多々あるからだ。

 いずれにせよ、「権力とは税金を取ること」であり、いまや職業議員たちがその急先鋒になっていることが、今回、私が提出した条例案の否決で明らかになったことは間違いない。

燃え上がった市民の怒り

 自らの掲げる「一丁目一番地」の政策が否定されたとき、政治家はどうすべきか。私は、そこで市民に対して市議会の解散請求(リコール)を呼びかけ、市民もそれに応えてくれた。この私の行動に対して「市長も、市議会議員も、それぞれ市民に選ばれた代表であり、市長がその議会の声を聞かないのは、二元代表制の原則を踏みにじる、独裁的横暴だ」などという声が挙がる。だが、私はその意見は間違っていると思う。

 私は、年収800万円とはいえ、市民の血税をいただいている。しかも、市長に当選するうえでの最大の公約が「減税」であった。それを否決されて、「議会の意向なので、どうしようもないんです」といって済む問題だろうか。しかも市議会は、私の政策を実行すれば既得権を侵される立場にある「当事者」だ。その議会に否決されて、諦めろというのか。

 総理大臣ならば、衆議院を解散して民意を問うことができる。ならば、市長が信念を貫き、市議会リコールの旗を振って、何の悪いことがあるだろうか。しかも、それは民意に問うことなのだから、けっして「暴君」などといわれるいわれはない。

 まことにありがたいことに、5万人弱にも及ぶ方々が署名を集める受任者として必死に走り回ってくださり、リコールの署名は、約466,000人分集まった。だが、思わぬ抵抗に遭うことになった。市選挙管理委員会が、署名の審査を厳正に行なうとして、審査期間を1カ月延長したうえに、結果的に11万人分以上を無効としたのである。このため、一時は、住民投票成立に必要な365,795人に届かない、ということになった。

 むろん私とて、その審査が適正なものならば異論はない。だが、その審査はあまりにも「度を越した」ものであった。これまでの審査では、市民の直接請求権を尊重する意味で、比較的緩い基準が取られていた。今回の署名活動も、それに準じて行なわれていた。だが、署名の提出が終わった9月30日に開かれた市選挙管理委員会の議事録に、「今回の署名の目的は市議会の解散であり、署名の審査はより厳格にしていく必要がある」とあるように、基準が厳しくされたのである。

 そして、とてつもないことが行なわれた。11月29日付の『中日新聞』によれば、住所の地番「20-3」が「20・3」にみえるという理由で無効にされたり、受任者の住所欄に書き損じて2平方ミリメートル程度の点が残ってしまっていたものを、請求代表者の「訂正印なし」という理由で無効とするなど、やりたい放題だったというのだ。高齢のため字を上手に書けず、それを無効だといわれて「わしも長く生きすぎた」と肩を落とした方がおられるという話も聞いた。「電話帳を写した可能性がある」などと、ひどいことをいう人がいたが、生年月日を書かなければいけないのだから、そんなことができるわけがない。

 なぜ約11万人分の署名は、無効にされたのか。市選挙管理委員四名のうち、3名が市議会OBだといえば、疑念を抱く人もいるかもしれない。審査基準も、前出の『中日新聞』が報じるところによれば、選挙管理委員会事務局長が「事務局としては、これまでの実例・判例からそこまで明確にしてよいものか疑問は残ります」といったのに、委員がそれを遮って厳格化させたという。

 議員の立場を守るために、そこまでして、市民の権利を踏みにじる「署名の虐殺」が行なわれたのだ。民主主義の仮面を被った独裁政治のような恐ろしさを肌身に感じた思いがした。

 当然、このような審査に、市民の怒りは燃え上がった。署名を無効にされたことへの異議申し立ては3万件を超えたのである。かくて2010年12月15日に、リコールを問う住民投票のため必要な署名数が確定したのであった。

 この場合でも、即解散になるわけではなく、議会解散の是非を問う住民投票を経て、解散となる。民意を問う場が署名審査の次の段階に控えていることを考えれば、「署名虐殺」に走った今回の名古屋市選挙管理委員会の対応は、どう考えても異常であった。署名の審査に際して選挙管理委員が優先すべきは、「市民の政治活動の自由を守ること」であるはずだ。

 私は市長就任以来、「民主主義発祥の地ナゴヤ」という言葉を掲げてきた。だが、まさにいま「民主主義の真価」が問われているのである。

首長経験者の力をもっと国政に

 いま「中京都構想」を掲げ、来る愛知県知事選に立候補予定の大村秀章氏や、同じく「大阪都構想」を掲げている橋下徹大阪府知事と連携することを考えている。これは、愛知県と名古屋市を一体化し、現在、県と政令指定都市とで重複している行政を効率化することによって、減税を全県規模に拡大していこう、という考えである。

 ここで気を付けねばならぬことは、この構想の主たる目的は「県と政令指定都市の一体化」という間仕切りの話ではなく、あくまでその結果実現される「減税」にある、ということである。

 市民からすれば、間仕切りの話だけでは、何の意味もない。「減税」こそ、本稿でみてきたように大きな抵抗に直面する可能性が大きいが、市民の幸せに直結するものであり、全力で取り組むべき課題なのだ。

 私は衆議院議員を経験したのちに市長を務めたわけだが、国のためにお役に立とうと思ったら、「地域を経営する」という地方自治体の首長の経験はきわめて有意義なものだと実感している。首長経験者の力をもっと国政に反映させることができれば、日本の政治も、いまのように改革にも取り組めず、大事なことを何も決められない状況から脱することができるのではないか。橋下徹氏ら改革派首長や日本創新党などの首長経験者と連携し、声を挙げていきたいと考えている。

 いちばんの近道は、首長や地方議員と国会議員の兼職を認めるようにすることだ。すでにフランスなどでは行なわれており、十分に実現可能である。いま家業を継ぐ「職業政治家」ばかりになり、政界へのリクルート力が大幅に低下してしまった。それを打開するためにも、有効な一手だ。

 二番目は首長グループをつくっていくことであろうが、やはり旗印は「減税」であるべきであろう。世界の政治をみても、たとえば「アメリカの共和党が減税で民主党が増税」というように、ここが最大の対立軸になっている。私も日本の民主党を「減税民主党」にすべく努力してきたのだが、いまや国会は右も左も、みな「増税勢力」になってしまった。これではいけない。

 実際に改革に取り組んできた首長は、「納税者のみなさん、ありがとう」という実感を強くもっている。この得難い実感を結集し、増税勢力と対抗できれば、日本の国は見違えるような元気な国になるはずだ。ぜひ、それをめざしたい。

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