「窒息させるのは、そうあるべきだという理想」作家アナイス・ニンが抱えたジレンマ
2025年09月15日 公開
家庭や職場で求められる「こうあるべき」という理想は、ときに人を縛りつけ、苦しめるものにもなります。
そうした現実や困難から身を引く"逃避"を、肯定的に捉えたいと語るのは、作家の山口路子さん。著書『逃避の名言集』の中で彼女は、フランス生まれの作家アナイス・ニンの言葉を引用し、「自分のために生きられないこと」の悲しさについて綴ります。
※本稿は、山口路子著『逃避の名言集』(大和書房)より、内容を一部抜粋・編集したものです
自分のために生きていない人は、いつか窒息します
際限のない自分の善良さに、私は慄然とする。私は自分のためには生きていない。動きを封じられ、自己犠牲を続ける私は、いつも境界線の上で凍りついている。いつも。私を窒息させるのは、そうあるべきだという理想なのだ。
――アナイス・ニン『インセスト』
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『インセスト』は日本語訳すると「近親相姦」。ずいぶん刺激的なタイトルです。1932年から1934年までの日記がまとめられています。アナイス29歳から31歳までということになります。生涯を通して書き続けられた膨大な日記は文学史上比類なきもの、と評価されています。すべてにアンダーラインをひきたいくらい、抱きしめたいほどに魅力的な本です。
どこかに行ってしまいたい願望
「自分の人生を生きていないような気がするのです」「いつもいつも周囲の人たちにふりまわされているような気がするのです」。
そんなふうに考えて、何もかもが色あせて見え、「どこかに行ってしまいたい願望」にとりつかれることは、年に何回くらいあるでしょうか。
アナイスも、ときおりそんな状態におちいっていました。
夫のために気を配り、母親や弟のことを気にして、それでヘンリー・ミラーをはじめとする複数の恋人のために世話を焼く日々。もちろん自分の意志でそれをしているのだけれど、理屈抜きで「もう嫌っ」となってしまうときがあるのです。いいえ、「自分の意志でそれをしている」という自覚があるからこそやっかいなのかもしれません。誰かのせいにできる愚鈍さをもっていたら、そんなふうにはならないでしょうから。
いずれにしても、アナイスを窒息させるのは「そうあるべきだという理想」、つまり、周囲の人たち全員に対してあふれるほどの愛情を与えるべきだという理想です。けれど周囲の人たちのために自分が窒息したのでは本末転倒。背負いこんだ荷物を少し捨てて、「自分のために生きている」と納得できる状態に、ときおりリセットすることが大切なようです。