この情報に圧倒される時代を、個人として、社会としてうまく切り抜けていくにはどうすればいいのか?
混乱を回避し、思考の罠に陥ることを防ぎ、愚かな行為や考えをふるいにかけるには?
本稿の著者3人は、そのためには今その信頼が揺らいでいる"科学的思考"、"科学的アプローチ"が何よりも重要であるという。そして、とりわけ有効だと思える概念やアプローチの総称として「Third Millennium Thinking(3千年紀思考/3M思考)」と名付けた。
本稿では、その"3M思考"に欠かせない、蓋然的思考について書籍『THIRD MILLENNIUM THINKING アメリカ最高峰大学の人気講義』より解説する。
※本稿は、ソール・パールマッター、ジョン・キャンベル、ロバート・マクーン(著) 花塚恵(訳)『THIRD MILLENNIUM THINKING アメリカ最高峰大学の人気講義』(日経BP)を一部抜粋・編集したものです。
自分の知っていることはほんの一部にすぎない
現実について自分が知っていることを意識し始めると、すぐさま2つのことが明らかになる。ひとつは、自分には知らないことがたくさんあるということ。もうひとつは、未だに不確実なことがたくさんあるということだ。
不確実なことを前にすると、人は不安になる。私たちは人間で、生理学的に生存を前提にしたつくりになっている。よって、森に何が潜んでいるかわからなければ、進む足取りは当然慎重になる。
だが実のところ、自分が何を知らないかを知ることや、自分の知っていることはほんの一部にすぎないとの認識を持つことは、生存にはもちろんのこと、成功にも欠かすことができない。そうすると、科学的思考の基軸通貨に該当し、3M思考において中核を担う思考の使い方が自ずと必要になる。それは、不確実であるという現実を、自分がとる行動は正しいと確信することに利用するという考え方だ。
知っていることはあるがすべてを知っているわけではないという現実を前にして、科学の力を使えば、この現実とのかかわり方を大きく変えることができる。「絶対的に確信が持てることにしか働きかけてはいけない」という姿勢から、「確信の度合いに差があるさまざまなことに働きかけるほうが、より多くの成功を手にできる」という姿勢に変わることができるのだ。
それに、根拠を手に入れたところで絶対的な確実性はたいてい得られないのだから、完璧な答えを求めるより、「自信の度合いにもいろいろある」という概念を理解するほうがよほど役に立つ。
では、スキーを履いたあなたが膝と上体を固定したまま、体重移動や足の曲げ伸ばしをいっさい行わずに斜面を滑り降りようとしている場面を想像してみてほしい。大惨事を招くのは必至だ。スキーで滑りながら直立姿勢を保つには、足にかける体重を絶えず移動させながら姿勢の安定を保つ必要がある。このような安定の保ち方を"動的"安定性と呼ぶ。
現実について知っていることにもとづいて決断を下さないといけないときもこれと同じで、自分が持つ知識はすべて事実であるとの思いに固執してはいけない。そうではなく、これについては強く信頼し、あれについては多少の疑いを残すというようにして、新たな事実が判明するたびに信頼の比重を変えるようにするといい。そうすれば、必要に応じて決断の内容を更新していくことができる。
これは非常に重要な割にめったに口にされない科学の要領のひとつで、理解が不確かな状態という「スキーの斜面」をうまく切り抜ける柔軟性が思考にもたらされる。そのように考えることを「蓋然的思考」と呼ぶ。
蓋然的思考は徐々に受け入れられてはいるが、世間に浸透しているとはとうてい言いがたい。いまでも多くの人が、新しい薬や食事法、刑事司法改革といったものの実験にもとづく有効性を前にすると、冷淡かつ二元的に、正解か間違いのどちらかで判断を下そうとする。
この二元的な観点に立つと、反証例(「私のおじはワクチンを打ったのにインフルエンザに罹った」)がひとつでもあれば、元々の主張は完全に覆されたとみなされる。そうなれば、それを理由に、元々の主張をした科学者は恥じ入るべきだという話になりかねない。
科学者はそうした白か黒かの考え方から脱して、どんな提案にも曖昧さを含ませる文化を築いた。
その曖昧さ―発言に必ず含まれる不確かさの度合い―は、科学にとって大いなる強みとなる。その瞬間に抱いている意見に入れ込みすぎずにすむのだ。毎回正しいことを言って当然だと思うのをやめれば(スキーで体重を移動させるように、自分が推す度合いを意見ごとに変える、つまり自分は正しいと思う確率を意見ごとに変えるようにすれば)、「この説で何が起きているかを解明できると、かなり自信がある」という言い方をしても、科学者としてのプライドと自信を保ったまま、ときには間違いがあってもいいと思える余裕が生まれる。
もっと言うと、つねに正解であろうとして自分の自我を危険にさらすのをやめて(つねに正解であることは不可能だ)、何かに対する自信の度合いを概略で判断できるようになってもらいたい。
スキーを始めると、「前を見て滑れば、うれしくない驚きにあまり遭遇しなくなる」と学習する。科学者もそれと同じで、不確実であると認めることで、自分が間違っているかもしれない理由を求めて前を向けるようになるのだ。
そういう蓋然的な姿勢は3M思考に不可欠な要素のひとつで、さまざまなメリットや可能性をもたらしてくれる。考える姿勢を変えることは、弱み(不確実性)を受け入れて強みへと変える、柔術の動きのようなものだと思えばいい。
その不確かさを定量化する
科学者になると、不確かさを表明する便利な習慣がいくつか身につく。そのひとつが、可能な場合に自分の予測に数字を当てはめて定量化し、予測を確率で表すというものだ。
たとえば、グーグルで「サンフランシスコ・ベイエリアで大きな地震が起こる可能性」(不本意ながらも筆者がつい検索してしまうフレーズだ)と検索すれば、「30年以内にサンフランシスコ地区でマグニチュード6.7を観測する地震が起こる確率は72パーセント」といった文言が見つかる。
この文言は、地震が起こる可能性について大してわかっていないとも言えるし、豊富な知識を表しているとも言える。時期(30年以内)と場所(サンフランシスコ地区)にもとづいて地震が起こるリスクを算出したに違いないが、なぜか「6.7」と明言していることから、その値を基準にする何らかの理由があると考えられる(おそらくは、発言者の主張や発言者が活用するデータが関係するのだろう)。
科学者は、何かが真であると心底自信がある―絶対に間違いなく確実に真である―と発表したいと思っても、彼らが日々使い続けている言い回しのせいで、「よし、100パーセント、絶対に間違いなく確実に真だ」と口にするのをためらう。
とはいえ、99パーセントや99.9999パーセント自信がある、という表現なら使うかもしれない。何かについて99.9999パーセント自信があると言えば、それは実質、「それが真であることに人生を賭けてもいい」と言っているのに等しい。
ただし、「自分が間違っている可能性があることを認めている」とも言っている。絶対を謳う発言から一歩引くことができるこの能力は、蓋然的思考の重要な要素のひとつだ(これまでに見たことがある白鳥がすべて白だったとしても、「白い白鳥を何羽見ようとも、すべての白鳥が白であるという推論を容認することはできないが、黒い白鳥が1羽観測されるだけで、その推論の反証として十分である(※注1)」と、19世紀の哲学者ジョン・スチュアート・ミルが論じたのは有名で、のちにナシーム・ニコラス・タレブがそれをデヴィッド・ヒュームが提唱した問題として言い換えている)。
もちろん、99.9999パーセントも自信が持てないことはたくさんある。というより、知識の見直しや新しいことの習得と発見を絶えず行っていることが、科学におけるもっとも生産的な側面だ。
それに、世界自体がつねに変わり続けるものでもある。世界の動きに対し、私たちは未だに驚かされてばかりいる。だからこそ、私たちが苦労して得た、「世界に関する私たちの知識は未完成である」という認識について語る方法を模索する必要がある。
具体的には、「世界は◯◯するようにできているという理解は正しい。87パーセントの確率で正しいと思っている」と言えるようになるということだ。加えて、強い疑念についても口に出せるようにならないといけない。たとえば、「この新しい理論が正しい確率は51パーセント程度ではないか」という具合だ。
このように、0から100のパーセント表示で示す確信度は、世界のことを論じるときに誰もが使える科学のツールのひとつである。
この確信度という蓋然性を表すツールのことを、何世紀にもわたって積み重ねてきた科学的思考の最新バージョンだととらえるのも一興だ。
私たちは、世界の理解を深め、より効率的に世界と共に生きていけるようになるために、世界についての記述を段階的に充実させてきた。最初はものに名前をつけることから始まって、次はカテゴリーや階層に分類するようになった。そしてものの測定が可能になると、数値化できる特性は測量し、いまではそうした定量化の一環として、私たちの自信まで定量化し始めたのだ!
注1:この引用は、「スコットランドの哲学者、デヴィッド・ヒュームはその問題を提言している(その提言を、いまや有名になったジョン・スチュアート・ミルが提唱した黒い白鳥問題に書き換えたものが以下になる)。」に続く文言である。引用元となった著作は以下。Nassim Nicholas Taleb, Fooledby randomness(『まぐれ』望月衛訳、ダイヤモンド社、2008年)。