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生き方

「生きて帰れたら茶室で...」特攻仲間にふるまったお茶 千玄室さんが忘れられない約束

千玄室(茶道裏千家第15代・前家元、大宗匠)

2025年08月15日 公開 2025年08月15日 更新

裏千家第15代・前家元の千玄室さんは、102年の生涯にわたって世界70カ国以上でお茶会を開き、茶道を通じた国際交流に尽力しました。

80年前、特攻隊員として訓練を受けた千さんは、出撃することなく終戦を迎えます。若くして命を落とした仲間たちの分まで生きる決意を胸に、最晩年まで「和敬清寂(わけいせいじゃく)」の精神を世界へ伝え続けました。

(取材・文:鈴木敦子、写真:白岩貞昭)

※本稿は、月刊『PHP』2025年9月号より内容を抜粋・編集したものです。

 

お茶による国際交流を図ってきた

一盌(いちわん)からピースフルネスを――。私はこの一念を胸に世界をめぐり、お茶による国際交流を図ってきました。これまでに訪れた国は70カ国以上。300回以上渡航し、世界中に茶道の心を伝えてきたのです。

いろいろな国でお茶会を開き、お茶を捧げてきましたが、海外の方にとても喜ばれる茶席の決まり事があります。それは「お先にどうぞ」「いかがですか?」と声をかけ合うこと。知らぬ者同士が一呼吸おいて、お茶を勧め合う。そのさりげない気遣いに、みなさん心を打たれるのです。

お茶は、間(一呼吸)を保ちながら対話する絶好のツールでもあります。「間」というのは、すなわち余裕、もしくは距離感と言ってもいいでしょう。床の間に掛物や野の花を飾り、お茶を点てている間にお菓子を召し上がってもらう。客は「お先にいただきます」と隣の人に声をかけて、お茶を一服......すべてが「間」なんですね。

今、世界のあちこちで衝突が起きています。相対するものがぶつかり合えば、当然どちらも傷を負います。そんな悲劇を防ぐために「間」が必要なのです。

アメリカのトップコンサルタントの一人、ジェイ・エイブラハムさんはかつて、「間隙をとる大切さを、日本に学べ」と言いました。「そのためにもわれわれは茶道の精神を知るべきだ」と。

私は世界中に親友がいますが、一昨年に100歳で亡くなったヘンリー・キッシンジャー元米国務長官もその一人。私と同い年の彼はお茶が好きで、わが家にも何度か遊びにきました。

そんな彼が亡くなる少し前、ニューヨークでお会いしたときのことです。車いすに乗った彼は、「千さん、これからの世の中は大変ですよ。さまざまな困難を乗り越えていかないといけない」と言いました。まるで暗澹たる未来を見通しているかのように。

お茶のルーツである中国にも、たくさんの友人がいます。中国には120回ほども行きましたからね。家内の弔問にわざわざ足を運んでくれた胡錦濤前国家主席も、かけがえのない友の一人です。

※盌:ふたがない水を盛る器

 

受け継いできた利休の教え「和敬清寂」

なぜ、信条を異にする人とも心を通わせることができるのか。それはお茶が、個人の立場や国同士の諍いなどを軽々と越えていくものだからです。政治、宗教、人種、肩書き......どんな違いがあろうと、お茶室ではそのようなもの一切関係ありません。

武家も町人も、身分の区別なくみんな一緒にお茶をいただく。そういう文化を、今から450年以上前に利休が創り上げたのです。

利休の教えとして今日まで受け継いできたのは、「和敬清寂」の心です。「和」は平和と調和、「敬」は互いを敬うこと。「一盌のお茶を前に、心をひとつにして敬い合いなさい」と。だからお茶室には、小刀ひとつ持ち込めません。どんなに偉い人でも丸腰で、頭を低くして入室するのです。

「清」は、清らかな心を持つこと。人はみんなきれいな心ではありません。保身のために嘘をついたり、人の不幸を願ったり。清らかであろうとしても、いつの間にか汚れてしまっているものです。

仏様は「一切皆苦」、すなわち「生まれたときから死ぬときまで、苦しみばかりだ」とおっしゃいました。まことに、その通り。苦しいのは自分だけじゃない。幸せそうに見える人も、みんな苦しいのです。だから清らかな心を持ち、やさしい気持ちで人に接することが大切になります。

未来がどうなるかなんて、だれにもわかりません。今を大事に生きるしかない。目に見えない階段を、一歩ずつ上がっていく。滑り落ちたり、失敗したりすることもある。

それでもしがみついて上がっていくことで、いろいろなことを乗り越えられる人間性が身につくのです。

気に入らないことがあればすぐに腹を立てて、だれかを憎んだり攻撃したり。そのようなことでは、世界はやがて滅びます。もっと穏やかな心で、人様に「どうぞ」と手を差し伸べる。それができなければ、キッシンジャーさんの言う「困難」を克服することなど到底できません。

営利で結びつくのではなく、「和敬清寂」の心でともに手を携え、「いいこと」をしていく。そのような心がけが、ますます大事になってきていると感じます。

 

特攻隊の生き残りとして日本文化の普及に尽くす


出征した仲間たちとの茶会(右が千氏 写真提供:裏千家)

80年以上も前のことになりますが、出征したときの体験は今でも忘れることがありません。昭和18(1943)年、文系学生の徴兵猶予が停止され、同志社大学の学生だった私は海軍に入隊しました。士官教育を受けたあと、海軍少尉として任官。その後、戦局の悪化にともない特別攻撃隊、いわゆる「特攻隊」の一員として、死ぬための訓練に明け暮れることになりました。

実は出征にあたり、私は茶道具一式が入ったお茶箱を持っていきました。戦乱の世を生きた利休は陣中で茶を点てたと伝えられており、私も利休の子孫として戦に茶箱を持参したわけです。「利休もこんな気持ちだったのだろうか」と考えながらふるまうお茶を、特攻隊の仲間たちは「うまいなあ」と飲んでくれました。

みんな20代前半の前途有望な若者ばかりです。京都大学の学生だったある仲間は、「生きて帰れたら、お前のとこのほんまもんの茶室で茶を飲ませてくれや」と言い残し、出撃していきました。

信管を抜いた250キロの爆弾を積んで敵に体当たりするのです。生きて帰れぬと知りながら、「生きて帰れたら」と話す彼の声を、今でもはっきりと思い出すことができます。

昭和20(1945)年5月21日、ついに私にも出撃命令が下されたのですが、直前になって命令が取り消され、そのまま終戦を迎えました。復員後、私は父の下で修業を積み、40歳で第15代家元を襲名。80歳のときに家元を長男に譲座し、以降は大宗匠としてお役目を続けています。

今年で102歳。なぜ、私だけがこんなに長く生きているのだろう。

「お国のため」と言ったって、本当はみんな死ぬのが怖かった。おふくろにもう一度、頭を撫でてもらいたい。抱きしめてほしい。そう願いながら、最後に「おかあさーん」と叫んで出撃していった。80年前のことを想うと、今もたまらない。せめて彼らの分も一生懸命生きよう。そんな気持ちでここまできたのです。

そんな私がこの国の行く末を考えたとき、今一度、みなさんにお伝えしたいのは、「文化の価値」についてです。「間」、そして「和敬清寂」の心――日本には営々と築き上げてきた独特の文化があります。

その文化を世界中に広げていくこと、世界の人々の心に染み込んでいくようにすることが、私たち日本人の目指すべき道だと思うのです。

今、日本には海外から大勢の観光客がやってきています。日本のうわべだけでなく、ぜひ本当の姿を見ていってほしい。そしてそのためには、日本人自身が自国の文化をもっと勉強しなくてはいけません。

最後に「和敬清寂」の「寂」ですが、これは「何事にも動じない気持ちを持つ」ということ。私は日ごろからくよくよと気にしないよう心がけています。だれに何を言われても「ふーん」と思っていたらよろしい。なるようになる。そのように構えていると、たいがいのことは本当になるようになるものです。気弱になったときは「海軍時代を思え!」と自分に活を入れるようにしています。

「健康の秘訣は?」と聞かれることも多いのですが、ひょっとしてこのような心の持ちようが、健康の秘訣かもしれません。私はいつもできるだけ笑顔でいるようにしています。難しいときもあるけれど、家でも公の場でも、笑顔でいることが大切。

靖国神社へお参りすると、特攻に散った仲間たちの「おーい、千や。何してんのや」という声が聞こえてきます。長生きは運命、天命と受け止め、私に課せられた使命をまっとうしたいと思います。

 

【千玄室(せん・げんしつ)】
1923年、京都府生まれ。学徒出陣にて海軍航空隊入隊。同志社大学卒業後、ハワイ大学修学、韓国・中央大學校大学院博士課程修了。’64年、裏千家第15代家元となり、宗室を襲名。2002年、家元を譲座し、汎叟千玄室大宗匠。ユネスコ親善大使、日本・国連親善大使、日本・観光親善大使。哲学博士、文学博士。2025年8月逝去。

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