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生き方

旅順の合理的戦法~乃木希典と日露戦争(1)

中山隆志(元防衛大学校教授)

2012年12月28日 公開 2016年06月21日 更新

『歴史街道』 2013年1月号[総力特集]より

乃木希典は愚将なのか?

旅順要塞攻略、奉天会戦、日本海海戦…。日露戦争の行方を決定づけた戦いにおいて、そのすべてに関わり、奇跡的な勝利に至る鍵を握った、キーマンともいうべき人物が存在する。満洲軍第三軍司令官・乃木希典だ。
司馬遼太郎の小説 『坂の上の雲』 などの影響で、乃木は戦後長らく「頑迷な指揮官」「愚将」として語られてきた。しかし、果たしてそれは正当な評価だったろうか。信頼性の高い史料から窺うことのできる乃木の姿は、実は全く異なっている。

 

 司馬遼太郎『坂の上の雲』の功罪

 「日露戦争勝利の立役者」と聞いて、まず誰を思い浮かべるでしょうか。恐らく陸軍では児玉源太郎、海軍では東郷平八郎を挙げる人が多いかもしれません。確かに、児玉は総参謀長として見事に満洲軍をリードし、また連合艦隊司令長官・東郷の存在なくして日本海海戦の勝利はありえませんでした。

 しかし――もう一人、「日露戦争勝利」を語る上で絶対に欠かせない人物がいます。満洲軍第三軍を率いた、乃木希典〈のぎまれすけ〉です。

 乃木といえば司馬遼太郎氏の小説『坂の上の雲』などの影響で、「愚将」のイメージで語られることが多いでしょう。例えば、同小説の奉天会戦の記述には、次のようなものがあります。

 「『乃木閣下もこまったものだ』
 という声が、総司令部で憎悪をこめて毎日ささやかれつづけ、さらに若い参謀までが、
 『第三軍の幕僚はいつまで下手ないくさをするつもりか』
 と、旅順での不手際をもふくめてののしったりした」

 『坂の上の雲』はあくまで小説ですが、司馬氏自身が「この作品は、小説であるかどうか、じつに疑わしい。ひとつは事実に拘束されることが100パーセントにちかいからである」と述べていることもあり、このような「拙劣で頑迷な司令官」としての乃木像が、あたかも事実の如く流布しているのです。

 しかし、同作品が「事実に100パーセントちかく拘束」されているかと言えば、そうではありません。司馬氏の見方は一方的に過ぎる部分があり、残念ながら事実誤認も多く見受けられます。そしてその最大の「犠牲者」が、他ならぬ乃木なのです。

 実際の乃木は、明治37年(1904)8月からの旅順攻囲戦、翌38年2月未からの奉天会戦を、果断な采配で勝利に導いた人物です。さらに言えば、あの日本海海戦の勝利も、実は乃木抜きには語れません。以下、『坂の上の雲』の問題点を踏まえつつ、乃木が日露戦争に果たした「真の役割」を明らかにしていきましょう。

 

旅順攻囲戦で見せた合理的判断

  『坂の上の雲』をはじめ、戦後描かれてきた乃木像には、やはり甚大な死傷者を出した旅順攻囲戦の印象が強烈に影響しています。旅順の戦いは、概ね以下のような流れで語られてきました。

1)海軍は明治37年8月の第一次総攻撃以前より、要塞西北の二〇三高地の攻略を進言したが、第三軍は頑迷にも最も防備の堅い東北正面への攻撃を繰り返した。
2)第三軍は旅順要塞への攻撃において有効な策を有しておらず、無謀な突撃を繰り返して徒に死傷者を増やした。
3)第三軍は11月からの第三次総攻撃後に二〇三高地へ攻撃目標を転じ、第三軍司令部に乗り込んだ児玉源太郎総参謀長が指揮すると、二〇三高地はすぐに陥ちた。

 しかし、参謀本部編纂『明治卅七八年日露戦史』(全10巻、通称「公刊戦史」)などの信用できる史料からは、全く異なる戦いの流れが見えてきます。司馬氏は同書を「愚書」と酷評していますが、戦闘の詳細を知る上で公刊戦史に勝る史料はなく、基本的な流れは同書に拠るのが戦史研究の常識です。

 まず、なぜ乃木は旅順要塞の東北正面への攻撃を採用したのか。端的に言えば、要塞攻略への「最短ルート」であったからです。具体的には大きく2つの理由があり、1つは鉄道、道路が東北正面まで延びていたことです。総攻撃を仕掛けるには武器・弾薬の補給路確保が不可欠であり、その点、鉄道や道路は重要でした。もう1つは要塞一番の高所で、敵陣の要である望台への最短距離にあったことです。ここを陥とせば他堡塁を見渡せ、要塞の死命を制することが可能でした。東北正面攻撃は、まさに理に適った選択だったのです。

 ところが『坂の上の雲』では、二〇三高地を旅順攻略の要とし、最初から二〇三高地を攻めていれば「旅順ははじめ1日で陥ちるはずであった」とまで記しています。もちろん、これは全くの誤りです。

 二〇三高地からは旅順港内を見下ろせるため、港に碇泊する旅順艦隊(ロシア太平洋艦隊)砲撃の観測地としては最適ですが、要塞攻略そのものには結びつきません。あくまで、旅順艦隊絶滅を望む海軍にとってのみ、重要だったのです。そして海軍がそれに気付くのは、第二次総攻撃後の11月以降のこと。児玉源太郎ら総司令部を含めて、最初から二〇三高地主攻説を採っていた者は皆無でした。

 では、旅順要塞の東北正面を、乃木はどのように攻めたのでしょうか。要塞の実態を摑めていなかった8月の第一次総攻撃では、確かに有効な攻撃方法を見出せず、1万5000もの死傷者を出して失敗します。しかし乃木はこれを受けて即座に方針を転換、周囲の反対を退け、参謀の井上幾太郎が進言した「正攻法」を採用します。正攻法とは壕を掘って敵陣に接近して突撃陣地を設けるなど合理的な戦法で、最後には坑道を掘り、工兵の爆破で敵陣地を陥落させます。第三軍はこの攻撃が要塞戦に有効であることを、世界に示すことになります。乃木は翌9月から正攻法を取り入れ、10月の第二次総攻撃では死傷者数が第一次の4分の1に減り、ロシア側のそれを下回りました。この決断を見ても、乃木が「正面からひた押しに攻撃してゆく方法に固執し、その結果、同国民を無意味に死地へ追いやりつづけ」(『坂の上の雲』)た訳ではないことが分かります。

 その後、乃木は11月の第三次総攻撃開始直後に主攻目標を二〇三高地に変更、激闘の未にこれを陥とします。決断の背景には、一刻も早い旅順艦隊の壊滅を切望する東郷平八郎の存在がありました。乃木と東郷は肝胆相照らす仲で、旅順攻囲戦当時も連絡将校を通じて互いの状況は把握し合っています。恐らく、乃木は迫り来るバルチック艦隊との決戦を控える東郷の苦衷を察し、海軍が要請する二〇三高地攻略(総司令官は反対でした)の優先を決断したのでしょう。

 二〇三高地攻略に関しては、児玉源太郎の梃入れが大きかったという印象が強いかもしれません。総参謀長の児玉は、戦闘中の第三軍司令部を訪れると、大胆に重砲陣地を変更し、「魔術」を使ったかの如く陥落への道筋をつけたというのです。しかし実際には、児玉が命じた重砲の移動はごく一部で、むしろ砲撃目標の変更こそが児玉の功績でした。苦境に立つ盟友・乃木を案じた児玉は、第三軍の砲撃の狙いをロシア軍守備隊陣地から二〇三高地後方の砲台へと変更させました。敵の逆襲を阻止するために、味方撃ちをも辞さない非情の命令を下したのです。

 二〇三高地が陥落すると、第三軍は休まず東北正面の各堡塁を攻撃しました。そしてロシア軍が二〇三高地の攻防で兵力を損耗していたこともあり、第三軍は翌年正月に旅順要塞陥落を果たすのです。ロシア側が「3年はもつ」と豪語した永久要塞を4カ月で陥とした偉業に、世界は称賛を惜しみませんでした。

著者紹介

中山隆志(なかやま・たかし)

元防衛大学校教授

昭和9年(1934)生まれ。防衛大学校卒業(二期)後、陸上自衛隊指揮官・幕僚等、防衛研究所所員、防衛大学校教授などを歴任。
現在、偕行社近現代史研究会委員長、戦略研究学会理事。

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