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乃木希典は愚将ではない!司馬遼太郎氏の誤りを正す

桑原嶽

2016年06月21日 公開 2024年12月16日 更新

PHP新書『乃木希典と日露戦争の真実』はじめにより

 

乃木大将への羨望と嫉妬

 戦前、国民的英雄として国民崇敬の的であった乃木大将が、戦後、一部の者からとはいえ愚将とまで言われるようになったのは、社会の混乱による価値観の変化と言ってしまえばそれまでだが、その根は、やはり戦前にもあったような気がする。それがたまたま奇を衒う流行作家の手によって爆発的に世に喧伝され、いつの間にか、さも真実のように思われてきたのである。

 従って、この誤りを正そうとするなら、この戦前の乃木大将に関する偏見中傷の実態を明らかにする必要があるのではないだろうか。

 以下、これらの点について卑見を述べて、識者のご批判を仰ぐものである。

 先ず第一に考えられることは、大将に対する嫉妬である。

 大将は明治4年、22歳の若さでいきなり陸軍少佐に任命された。長州藩の一支藩の下級武士出身者としては、ちょっと説明のつきにくいほどの異例の抜擢である。当局が大将の人物識見をいかに高く評価していたかの証左でもあるが、同僚のなかでは「なんだ、あいつ」と思うものがいても、決して不思議ではない。

 そもそも大将を陸軍に推薦したのは薩摩の黒田清隆である。長州出身の彼が薩摩の人間に推薦されるのもおかしな話だが、それは乃木大将の従兄にあたる御堀耕助のお陰である。御堀はかって太田市之進と称し、幕末討幕運動の志士であり、薩摩の同志などと親交があった。明治2年、山県有朋、西郷従道らと渡欧の途についたが不幸にも病を得て帰国し、4年5月、死亡した。御堀が故郷の三田尻で療養中、黒田が見舞いに訪れたとき、彼が乃木の将来を黒田に頼んだのである。

 乃木が上京して黒田を訪ねたのは、御堀が死んでから半年後の11月22日で、翌23日、少佐に任命されたのである。少佐という階級には彼自身がびっくりしたといわれるが、それ以上に彼の同僚が驚いたのは想像に難くない。

 羨望はやがて嫉妬とかわる。まして、当時対立の関係にあった薩摩の黒田の推薦となれば、長州人からの反発は当然だろう。

 かくして乃木は、そのスタートの時点において長州閥の主流から外されたのである。司馬遼太郎氏などが、乃木は長州閥のお陰で出世したなどと言っているが、いかにそれが見当違いかがわかるだろう。

 乃木大将の軍歴において他の人と著しく異なっている点は、その生涯を指揮官一本で通していることである。また中央部の要職に一度もついたことがなく、陸軍最高位の大将にまで昇進したのは極めて珍しい例ではないだろうか。大将が将官になってから三度も休職になりながら、なお現役の地位に留まることができたのは、指揮官としての実績声望の然らしめた結果であり、また明治天皇のご信任がきわめて厚かったためであろう。それだけに一部のものの反感嫉妬があったことも推察できる。

 日露戦争後の大将の国民的人気、そして壮烈極まる大将夫妻の殉死に対する全国民あげての感動。これらが、ほんの少ない一部のへそまがり連中の反感嫉妬を招いたことも想像に難くない。

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乃木希典と日露戦争の真実

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