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生き方

奉天の果断~乃木希典と日露戦争(2)

中山隆志(元防衛大学校教授)

2012年12月28日 公開 2016年06月21日 更新

『歴史街道』2013年1月号[総力特集]より

司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』などの影響で、戦後、「愚将」のイメージで語られることの多い乃木希典。しかし、彼は日露戦争勝利を語る上で、絶対に欠かすことのできない人物の一人である。『坂の上の雲』の一方的な見方と事実誤認を排すれば、乃木の合理的戦法と果断は一目瞭然なのだ。日露戦争で果たした乃木の「真の役割」とは、何であったのか。

 

奉天会戦を決した「果断」

  「乃木軍、もっと猛進せよ」

 『坂の上の雲』でも強調されるこの言葉に象徴されるように、旅順陥落から約2カ月後に始まった奉天会戦において、乃木率いる第三軍は遅々として前進出来ず、戦果を挙げられなかったと信じている方も多いことでしょう。実際、総司令部は何度か「猛進せよ」と第三軍に檄を飛ばしています。では、奉天における第三軍は、本当に拙い戦いぶりだったのでしょうか。まずは旅順と同様に、従来語られてきたポイントを見てみましょう。

1)最左翼の第三軍は、ロシア軍右翼への迂回運動を担ったが、あくまで敵を引き付ける囮に過ぎなかった。
2)奉天会戦全体を通じて、第三軍の前進は遅々としており、その戦果は総司令部の期待を下回るものであった。
3)しかし秋山支隊がロシア軍退路へと猛進、加えて各軍が猛攻撃を仕掛けたため、敵将クロパトキンは総退却を決意した。

 しかし実際は、第三軍が担った役割は極めて重要なものでした。この点については改めて別稿で詳細に触れますが、第三軍にはロシア軍右翼を迂回して奉天西北まで前進し、敵の側背を脅威せよ、という命令が下されていました。兵力に劣る満洲軍は、右翼の鴨緑江軍と左翼の第三軍が敵側背に迫り、ロシア軍に混乱が生じたところを第一軍、第二軍、第四軍が正面南方から攻める、という作戦を立てていたのです。第一軍、第二軍、第四軍は第三軍の迂回成功ありきで動くものであり、第三軍の任務の重要さが窺えるでしょう。

 2月27日、第三軍は総司令部の命令を受けて、前進を開始します。第三軍の進軍は『坂の上の雲』では終始、「遅々としすぎている」と描かれていますが、実際は極めて順調にロシア軍右翼を迂回し、奉天西方を北進していました。谷寿夫『機密日露戦史』によれば、「第三軍の繞回運動は第九師団の運動を除き、一般に予期以上の快進撃で、3月3日までに約50キロの北上を果たしたとあります。『機密日露戦史』は司馬氏が大いに参考にしたという史料で、当然目を通していたはずです。そこに「予期以上」と記されているにもかかわらず「遅々としすぎている」としているのは、冷静な筆致とは言えないでしょう。ともあれ、第三軍は総司令部の計画通り迂回して敵側背に迫るべく、前進を続けていきます。

 しかし、ロシア軍も手を拱いていた訳ではありません。従軍記者スタンレー・ウォシュバンが、「奉天における乃木大将とその部下ほど恐れられたものは絶無だといっても過言でない」と述べているように、旅順要塞を攻略した第三軍は最精鋭部隊としてロシア軍に最も警戒され、総司令官のクロパトキンは第三軍の位置を確認するや、次々と部隊を送り込みました。このため、第三軍は苛酷な戦いを強いられ、次第に思うように進軍ができなくなります。総司令部はそんな第三軍に「猛進せよ」と督戦しますが、これは上層部が「現場」の実情を考慮しない典型でしょう。

 『坂の上の雲』などでは、乃木は騎兵を率いる秋山好古の支隊に奉天北方の鉄道遮断を託し、クロパトキンはその動きに背後を警戒。さらに満洲軍の各軍が猛攻撃を加えたため、ロシア軍は総退却に至ったとしています。確かに、秋山好古の活躍は特筆すべきで、第三軍の前半の快進撃も、行く手を切り開く秋山支隊の存在なしには有り得ませんでした。しかし、これらは事実であるものの、奉天勝利の「核心」ではありません。これまであまり語られてきませんでしたが、クロパトキンが総退却を決心したのは、実は乃木の「決断」があればこそでした。

 奉天会戦で乃木は2度にわたり、独断で第三軍の転進を敢行しています。最初は3月4日のことで、作戦計画よりも迂回半径を小さくし、目標を敵側背への接近から、奉天西への直接攻撃に変更しています。そのまま北進を続けると、隣接する第二軍との距離が広がる一方となり、第三軍は敵中に孤立しかねない。むしろ第三軍は第二軍と連繋しつつ奉天へ攻め込むべき、という柔軟な判断でした。

 そして2度目の転進こそ、奉天会戦の行方を決定づけるものとなります。7日、第三軍は再び進路を変え、今度は奉天北方へ向かいました。第二軍から「これより先の奉天西方に極めて堅固な陣地が築かれている」という情報を得た乃木は、目前の堡塁を攻めて徒に時間を費やすより、第三軍が当初目指した大包囲策による敵の退路の遮断こそ現時点では最良の策だと瞬時に判断したのです。

 第三軍が全速力で退路を遮断しようとしている――その情報は、恐怖とともに全ロシア軍に知れわたりました。焦ったクロパトキンは第三軍の行く手に次々と兵力を注ぎ込み、必死の抵抗を試みます。しかし、「対乃木」に気を取られるあまりバランスが崩れたロシア軍は、もはや戦線を維持することはできませんでした。第三軍がロシア軍主力を相手に激闘を繰り広げている間に、第一軍、第四軍、第二軍などの他の満洲軍が南方より猛攻撃を喰らわせたのです。クロパトキンは退路を失う恐怖に耐え切れず、9日夜に総退却を全軍に通達します。ロシア軍31万は乃木の決断をきっかけに、退却を余儀なくされ、かくして満洲軍は、奉天勝利を掌中に収めたのです――。

 こうして見ると、乃木は決して「愚将」などではなく、むしろ旅順、奉天という2つの激戦に剛毅果断に臨み、各局面で合理的な判断を下して、勝利を呼び込んだ司令官であったことがお分かり頂けるでしょう。さらに、明治38年5月に連合艦隊は日本海海戦で勝利を収めましたが、その「お膳立て」をしたのも乃木でした。旅順で二〇三高地を奪取した後、第三軍は直ちに観測所を設け、砲撃によって海軍懸念の旅順艦隊を全滅させたのです(後に分かった事実では、旅順艦隊はこの時既に戦闘能力を失い、自沈準備をしていました)。これによって連合艦隊は後顧の憂いなく、バルチック艦隊との一大決戦に臨むことができました。つまり乃木は、奉天会戦、日本海海戦という陸海の一大決戦の勝利を演出したわけであり、まさに「日露戦争勝利」の立役者と言っても過言ではないのです。

 合理的かつ先進的な思考で、戦況に応じて果断な決断を採る指揮官…。史実から見えてくる乃木は、『坂の上の雲』などで語られてきた人物像とは全く異なります。そして、そんな乃木こそが、あの日露戦争の奇跡の勝利を導いたという真実を、日本人は正しく認識すべきではないでしょうか。

著者紹介

中山隆志(なかやま・たかし)

元防衛大学校教授

昭和9年(1934)生まれ。防衛大学校卒業(二期)後、陸上自衛隊指揮官・幕僚等、防衛研究所所員、防衛大学校教授などを歴任。
現在、偕行社近現代史研究会委員長、戦略研究学会理事。

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