《『PHPビジネスレビュー松下幸之助』2013年3・4月号Vol.10 [連載]なるほど!日本経営史講座より》
今回は、日本の経営を歴史的にみる、つまり日本的経営と言われるものを歴史の立場から考えてみるわけですが、日本的経営をひと言で説明しろ、と言われると案外むずかしいのです。いくつかのポイントからみると分かりやすい。手がかりとして、日本でよく使われる経営用語のゴーイング・コンサーンから始めてみましょう。実は、この言葉は和製英語に近く、私自身英文の論文で使ったところ、アメリカでもイギリスでも、よく通じなかった経験があります。
現実にはあまり使われない言葉で、しいて用いれば“順調に儲けている企業”という意味で、日本の用法とかなりニュアンスが違う。日本では維持・存続すべき企業、というような意味であり、むしろ理念的に用いられていますね。要するに日本の社会では、企業はまず維持・継続するもの、当然のこととして存続されるべきもの、という通念がある、ということでしょう。
これは歴史的なものです。もちろん日本の会社も利益があがれば、出資者に配当が支払われます。しかし現実には大企業でも中小企業でも配当は二次的なもので、概して企業には維持・存続のほうが重要で、そのためには配当支払いの余裕があっても、留保・蓄積するのがよい経営と思われているのです。したがって戦後長いあいだ、1980年代までの日本の会社(上場会社)の配当性向(利益に占める配当比率)は、極端に低く30パーセント以下でした。当時、国際化とともに問題となり、国際的な政治の場では、日本側は50パーセントを目標とすると発言したこともありました。
明治から大正時代のある時期には、欧米なみに利益の70~80パーセントを配当にあてた会社も少なからずありました。しかし、歴史的にみると、存続重視の堅実経営は、長いあいだ老舗商家の伝統でした。江戸時代では、3代 約50年くらい続くと老舗といわれ、維持・存続、つまりゴーイング・コンサーンは、信用を維持する上で重要な理念になりました。
江戸時代の三井にみる永続の理念
それでは江戸時代の代表的な商家をとりあげてみましょう。江戸時代の商家経営の東西の横綱は、呉服(衣料)・両替業(銀行)の三井(越後屋)と両替業の鴻池の両家で、江戸中期以降200年近くにわたってその地位は変わりませんでした。両家とも襲名で、歴代三井は八郎右衛門、鴻池は善右衛門を名のり通したのですから、驚くべきゴーイング・コンサーン企業です。とくに三井の越後屋は、衣料の小売と銀行を兼業し、本家6家、連家5家の同族出資で、三都はじめ各地に10カ所以上の事業所をもち、従業員総数は1000人をゆうに超える大企業体でした。
三井では家憲(18世紀初頭)によって、多額の利益よりも存続が第一とされており、家長すなわち総本家の当主といえども、目的と理念に反した場合は、同族および支配人の総意によって引退させうることが成文化されていました。事実、6代の八郎右衛門高祐は優秀な人物で、茶道・絵画など文化に通暁し、紀州徳川家と交際して、名字帯刀とお出入りを許され、大名・武家との社会的交流に大いに貢献しました。ところが、そうした才能と生活のゆえに、家業を軽視するとして内部の批判があり、本人の意に反して、引退を余儀なくされています。三井の経営にとって、存続の理念はそれほどまでに徹底したものでした。
大坂の商家では、後継者の能力にリスクがあることから、むしろ女の子の出生を歓迎し、家業の存続の適性ある店員を婿養子とすることが珍しくなかったといいます。
株式会社のハイリターン的性格
明治になって、文明開化の風潮のもとに欧米の会社組織が紹介・導入され、政府の協力的な指導と支援により、近代産業が会社として設立されました。ところで、会社とくに株式会社は、イギリスでも十九世紀になって法制化されたもので、さかのぼれば東インド会社以降の遠距離貿易事業経営の歴史に由来するところがありました。多額の資本を集めかつリスクを分散するための仕組みであって、ゴーイング・コンサーン的な性格をもつものではありませんでした。むしろ、一定期間の事業の経営によって、配当を約束する企業体でした。出資者の側も、事業の期間に高率の配当を目当てに出資するのが一般でした。