明治日本の会社の存続期間
こうしたわけで明治初期に会社を設立しようとするときには、設立趣意書と定款に存続期間を書くのが普通でした。目安として10年たった時点で会社を解散し、残余財産を分配すれば、会社も株主も、多分儲かるだろうと考えられました。
当初は、10年から20年が多かったようです。国立銀行は20年でした。明治10年代に設立された代表的な有力会社、東京海上保険とか日本郵船の場合も、やや公共的性格をもつとして、20年でした。
ところが20年たってみたところ、銀行でもこれらの会社でも、解散したところはほとんどなく、存続期間は延長され、その結果、明治末から大正時代になると、多くの会社で存続期間の規定自体がなくなります。
また世界的にみると、この時期の株式会社は、存続期間とともに優先株の制度が普及したのですが、日本では優先株はまったく普及しませんでした。19世紀末から20世紀にかけて、欧米の場合、とくにヨーロッパの金持ちは、アメリカの会社へさかんに投資するようになりました。その際彼らにとっていちばん大事なことは、その会社の存続期間、つまりいつまで営業し、いつ解散するかであり、同時にアメリカの株主総会には出られませんから、配当がまず支払われる優先株が歓迎されました。
ところが日本では、優先株を発行しようとすると、世間からは「将来の解散を見込んでいるのか」と信用されなかったそうです。日本ではゴーイング・コンサーンこそ重要だったのですね。わが国では、天皇制をはじめ重要な組織体は、天壌無窮たるべきなのでしょうか。
戦後日本の会社の1割配当
日本では、かなり前、明治時代から国立銀行などについて、1割の安定配当という慣習が生じました。要するに銀行預金の金利はせいぜい6パーセント、どんなに高くても8パーセント以下というところから、株式会社の配当は10パーセントならば合格、会社は株主に対し責任を果たしているという思考が生まれました。
そして第二次世界大戦後の日本では、復興から高度成長期を通じて1割安定配当という考え方が産業社会全体に普及しました。利益の蓄積はもっぱら投資に向けられ、それが大会社にとって普通となりました。
2割配当は優良会社のシンボルで、松下電器産業は普通の会社よりも、従業員とともに株主にも報いるという松下幸之助(1894~1989─)の方針で、早くから2割配当を実施しました。ソニーは高率配当で有名でしたが、当時のソニーは資本金が著しく小額でしたからいわば例外でした。
トヨタは、1960~70年代から、業績がよくても1割2分から3分へと小きざみで、多額の増配はしませんでした。一部の株主から批判されましたが、当時の豊田英二(1913~─)社長は株主総会の席上で、「ウチのような日本の田舎の会社は、GM(ゼネラル・モーターズ)やフォードのようなビッグ・ビジネスとは比較になりません。大勢の従業員の生活を保障し、何とか存続していくには、株主の皆さんに少々我慢してもらうしかない」との一本槍の答弁でした。
〔ポイントその2〕 従業員の重視と「奉公」
〔ポイントその3〕 「和」とコミュニケーション
〔ポイントその4〕 得意先主義
<☆2~4の内容については、本誌をご覧ください>
由井常彦
(ゆい・つねひこ)
三井文庫常務理事・文庫長
1931年長野県生まれ。東京大学大学院経済学研究科修了。経済学博士。現職のほか明治大学名誉教授、日本経営史研究所名誉会長でもある。著書に『日本の経営発展』(東洋経済新報社)、『安田財閥』(日本経済新聞社)、『豊田喜一郎伝』(名古屋大学出版会)、『都鄙問答』(日経ビジネス人文庫)などがある。
<掲載誌紹介>
2013年3・4月号Vol.10
2013年2月27日発売
<今号の読みどころ>
3・4月号の特集は「商いの原点」。松下幸之助は生涯、一商人としての観念を持ち続け、自社の社員に、あるいは系列店の店員に、その心得を説き続けた。お客様に喜んでいただくこと、取引先と共存共栄すること、適正利益をきっちり確保すること、社会にプラスを与えること、みずからが喜びを感じて仕事ができること、そして、新しい商品・新しいサービスを発意し続けること……。では、ITの発達やグローバル取引の活発化など、大きな変貌を遂げつつある現代の商いで大事なことは何だろうか。本特集では、歴史を眺め、あるいは現代日本企業の現場で活躍する人たちの事例を見ながら、商いの原点を考えてみた。
そのほか、世界的な建築家・安藤忠雄氏と、住宅業界のトップリーダー・大和ハウス工業会長の樋口武男氏の対談は見どころ。