吾輩はウツである―作家・夏目漱石 誕生異聞
2013年04月05日 公開 2024年12月16日 更新
歴史的事実をモチーフに、不世出の文豪が誕生するまでを描く長編小説
『吾輩はウツである』は夏目漱石を長年にわたって研究し続けてきた著者・長尾剛氏が、歴史的事実をモチーフに、不世出の文豪が誕生するまでをドラマチックに描く、異色の長編小説です。
明治36年(1903)4月、小泉八雲が辞めさせられたことで学生たちの不満うずまく帝大に、夏目金之助(のちの漱石)が講師として赴任する。不穏な空気の中、学生たちの冷たい視線に晒される金之助は、毎日、不満と苛立ちを抱えながら教壇に立っていた。さらに、失恋で人生をはかなむ学生・藤村操が目の前に現れ、金之助の気持ちはますます不安定になっていく。
そんなとき、一匹の小さな黒猫が夏目家に迷い込んだ。心を病み始めた金之助は、その黒猫と会話をし始める。しかし、その黒猫と会話ができるのは金之助だけだった。
一方、病ゆえに突如として怒りを暴発させるようになった金之助に対し、妻・鏡子は一念発起。金之助の病を治すべく、ある行動を起こしたのだが……。
では、その冒頭をご覧ください。
【序】
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたか頓と見當がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶して居る。
「どうだ。よい出だしだろう」
しなびた借家の縁側に、あぐらをかいて座った一人の中年男が、満足げにこうつぶやいた。
男の手には、一冊の雑誌が握られている。
もっとも、傍らには人の姿は見えない。
明治三十六年(一九〇三)、秋。
東京は本郷区駒込千駄木。こんにちの文京区に当たる。帝都・東京というには、ややうらぶれた閑静な住宅街の一角である。
男の目の前には、貧相な垣根で囲われた小さな庭があるばかりだ。女郎花の花が、風に少し揺れた。
「『吾輩は』というところが、愉快じゃないか。猫の分際で、乙に気取っている。アンビバレンツの滑稽だ」
男はさも愉快そうに、クックッと押し殺した笑いをもらした。
「フン」
答える声がした。もっとも、傍らには人の姿は見えない。
「吾輩は別段、気取った覚えなんぞない。吾輩が吾輩を吾輩と呼んで、なにがおかしいものか。そんな瑣末なことでケラケラ笑えるおまえさんのほうが、おめでたいのだ」
この答に、男はむっとした。おやと思う間に、顔を赤らめた。癇癪持ちのようである。
「僕は、ケラケラなど笑っていない。少し笑っただけだ。だいたい吾輩なんて、偉そうにふん反り返った資産家なんぞが使う呼称だ。人として下卑た連中だ」
「吾輩は人じゃない」
「そういうのをヘラズグチというのだ」
男はフンと鼻息をもらすと、プイと横を向いた。しかしながら、赤らんだ顔がさらに赤くなることはなかった。少々おとなげないと、自ら悟ったのだろう。
「だがマァ、悪い出だしじゃない。文章の才を認めるのは、やぶさかではない」
「だろうっ! 我ながら傑作だ。滑稽にして深遠だ。文学かくあるべし、だ」
急に男はご機嫌になった。目を細めて、腕を足下のあたりに伸ばすと、ぐりぐりと相手の頭をなでた。
「あなたっ」
と、その時、後ろから声がした。
男の妻である。少々太めの体型ではあるが、艶のある頬と、くりっとした目の愛くるしい女だ。歳の頃は、二十代半ばといったところだろう。
「また猫を相手に、ぶつぶつつぶやいて……。ご近所の子供に、また『猫と喋る先生』って、からかわれますわよ」
妻は、ちょっとロをとがらせた。
男は目を落とすと、傍らに寝そべる猫を見た。猫も、男の顔を見ているようである。男はむしろ機嫌の良さそうな様子で、ニヤリと笑い、妻に答えた。
「言わせておけばいいさ。本当のことなんだから」
「ニャー」
猫が同意を示すかのように、一声挙げた。
この男、夏目漱石である。
彼がまだ無名の素人作家に過ぎなかった頃の話である。