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- 連載小説「報復捜査」 第10回 安東能明
殉職した公安部の刑事が追いかけていた事件に隠された真実とは!?
第10回
『石神(いしがみ)自動車(高井戸西)』
「この、石神自動車というのは?」
その瞬間、末次の身体が目に見えて強張った。眼鏡の奥の一重瞼が細かく痙攣し、所在なげに指先を震わせた。
「これは、概要だけになりますが」と言いながら、ファイルの別のページを開いた。「石神自動車から三〇〇メートルほどの場所にあるコンビニの防犯カメラに、フロントが壊れた車が映っていたんです。距離的にも駆け込む可能性が高いと見て、捜査対象に加えました」
「そのフロントの壊れた車は?」
「黒いセダンです。ただ......」
末次は少し間を置いた。
「石神自動車を調べると、ひき逃げ現場から採取した塗膜片の車種と、石神自動車に入庫した車種が一致しないという結果が出ました。科捜研の鑑定でも、そう記されています」
伊場は、報告書の字を目で追った。
確かに書いてある。石神自動車への疑義は事実上否定されている。
だが。
現場近くのコンビニの防犯カメラに映った黒いセダン。その先に石神自動車がある。それなのに、塗膜片の車種が一致しないから捜査対象から外した。
塗膜片の鑑定が正しければ、それでいい。だが、鑑定結果が正しいとは限らない。
末次の顔を、もう一度見た。
末次は、伊場の視線を受けて、またわずかに目を外した。
この男は報告書の矛盾に、気づいている。だが、言えない。そう見えなくもなかった。
「ほかに何か、気になったことは?」
「とくにはありません」
「川本さんの所持品については、何かありますか?」
伊場が尋ねると、末次はホッとしたようにページをめくった。
「遺留品の中に、この方のスマートフォンがありました。液晶はバキバキに割れていましたが、フォレンジック(データ復元)をかけました。そしたら、事故直近でおかしなデータがひとつ出てきました」
末次が指したページには、復元されたメッセージのログが印刷されていた。
宛先:山根知子
作成日時:六月一日十七時二十六分
本文:『21』
状態:未送信(送信失敗の下書き)
「山根という人物宛ての、数字の『21』ですか?」
「のようですね。数字二文字です。連絡先に登録されていましたが、関係性は不明です。当日の午後五時四十六分に下書きが作成されていますが、電波状況か何かの具合で送信には至っていません」
21。
伊場は、その数字を頭の中で転がした。
何を意味するのか。二十一日? 二十一番地? 二十一歳? 何かの略号か。
どの読みも、指のあいだからこぼれていく。数字だけが、意味を伴わないまま、頭の隅に冷たく残った。
「『21』や『山根』という名前に心当たりは?」
「......いや、いまのところは」
「川本さんについて、どんな人物だったかわかりますか?」
「独身です。ひとり暮らしで、高円寺南の賃貸マンション在住。事故があった場所の近くです。みらい共援会という法人に勤めていました。身寄りが少ない。近所付き合いもほとんどないし、職場の同僚以外との交友関係が見当たらないようです」
末次が示した住所と石神自動車の所在地を記憶した。
「みらい共援会というのは?」
「それについては、わたしのほうではわかりません」
末次のポケットの携帯が、また振動した。末次が少し体を固くした。
「事故当日、川本さんの直前の行動はわかりますか?」
「勤め先から、地下鉄で自宅に帰る途中でした。所持品のレシートから、クリニックを訪ねていたことがわかっています」
「どこのクリニックですか?」
「板橋にある楠本クリニック、という産婦人科です」
「産婦人科?」
示されたレシートには、板橋区中台一丁目の記載がある。
「はい。川本百合さんは、亡くなった当時妊娠していたようです。解剖結果でも、妊娠二ヶ月だったことが確認されています。でも、交際相手がいた形跡はどこにもない。職場や近隣の聞き込みでも、男の影はいっさい無かったと。天涯孤独の身で、父親の分からない子を身ごもり、その直後にひき逃げされて死んだ。正直、悲惨な事故ですよ」
末次はそう言って、ファイルをパタンと閉じた。
「これ以上は、本当に勘弁してください。所轄としては、地道に防犯カメラを洗うしかありませんから」
「ありがとうございました。非常に参考になりました」
伊場はカウンターから離れた。
出口のドアへ向かいながら、背後の気配を感じた。末次が携帯を取り出しているだろう。電話をかけているか、メッセージを送っているか。
署を出ると生暖かい空気が顔に当たった。
伊場は頭の中で整理を試みた。
川本百合。二十九歳。独身。
彼女は事故当日に産婦人科を訪れた。それと前後して『山根知子』という人物宛てに『21』という謎のメッセージを送ろうとして失敗し、そのあと、ひき逃げに遭って死亡した。
フロントの壊れた黒いセダンが運び込まれたはずの『石神自動車』。
名前は塗膜片の車種が一致しない、という理由で捜査対象から外されている。だが、鑑定結果は本当に正しいのか。末次はその矛盾に気づきながら、言えずにいた......。
誰かが、末次に圧力をかけている......。
高円寺署を出て、環七を南に走った。平日の昼前、道は流れていた。高円寺陸橋下の交差点で左折し、青梅街道へ入る。三百メートルほど走ると、地下鉄丸ノ内線の東高円寺駅交差点が見えてきた。駅の出入り口を行き交う歩行者たちの姿を横目に見ながら、交差点を通過する。そのすぐ先、全国チェーンの餃子屋の看板を左手に捉えたところで、伊場は北向きの路地へ車を滑り込ませた。
道がゆるく下っていた。低層のアパートと古い個人住宅が続く。人通りはない。昼間でも、物音ひとつしない。夜はもっと静かだろう。五十メートルほど行くと、道がわずかに左へ向きを変えた。伊場は車を端に寄せて、停めた。
右手に、三階建てのアパートがある。向かいの矩形の土地に二軒の個人住宅。
ここだ。
川本百合が倒れていた場所は、アパートのエントランス寄りだという。頭をエントランスに向けて、路上に横たわっていた。
伊場は車を降りて、あたりを見回した。
右手のアパート。向かいの住宅。すぐ目の前に六階建てのマンションが建っている。川本の住まいだ。自宅の目と鼻の先で彼女は死んだ。
周囲の建物が、谷間のようにこの場所を囲んでいる。
風も音も抜けない。
夜の八時台で、大雨だったという。
目撃者が出なかったのは、偶然ではない気がした。この場所なら、大きな音が出ても建物の壁に吸い込まれる。雨音が、すべてを塗り込める。誰かが、この場所を選んだとしたら......。
川本の自宅マンションを見上げた。地下鉄を利用し、いつもここを通って帰っていたはずだ。最寄り駅は丸の内線の新高円寺駅。そこから歩いても五分足らずの距離だ。事故当日は、板橋にある楠本クリニックという産婦人科に行った帰路、ここで事故に遭った。
路面には、何も残っていない。雨と時間が、すべて洗い流した。
伊場は少しのあいだ立っていた。
川本百合がここで最後に見たものは、何だったのか。
自分の住むマンションが、見えていたかもしれない。あと数十メートルで、自宅の扉が開くはずだった。
「21」という数字を、川本は送れなかった。
伊場は車に戻った。
スマートフォンで『みらい共援会』を調べた。結果はすぐ表示された。
『みらい共援会』の事務所は、千代田区九段南の、お堀端から少し入った場所にある清潔そうなオフィスビルの五階にあった。
一階のフロア案内板の文字を見た瞬間から、伊場の胸には嫌な予感が漂っていた。九段周辺は、官公庁や警察関連の施設が集中しているエリアだ。エレベーターで五階へ上がり、ガラス張りの扉を押し開けると、そこは静まり返ったオフィスだった。受付のカウンターには、品の良い中年女性が座っている。
「失礼します。吉祥寺署の伊場と申します」
伊場は再び警察手帳を提示した。
「こちらに勤務されていた、川本百合さんの件でお伺いしたいのですが。どなたか、彼女の上司にあたる方はいらっしゃいますか」
受付の女性は、川本百合の名前を聞いた瞬間、一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに事務的な微笑を浮かべて内線電話を取った。
「少々お待ちください。総務課の長谷川が対応いたします」
しばらくして、奥の応接室に通された。白髪交じりの髪を几帳面に整え、仕立ての良いスーツを着た五十代後半の男が待ち構えていた。交換した名刺には『総務課長 長谷川昌洋』とある。その物腰やお辞儀の角度、視線の配り方だけで、伊場には相手の素性がわかった。警察のOBだ。
伊場が再度、警察手帳を見せると、長谷川は一瞬だけ顔をしかめた。
「吉祥寺署の伊場さんですか。川本さんの件とは......彼女は先月末に、高円寺のほうで痛ましい事故に遭われましてね。わたしどもも大変ショックを受けているのですが、それがなぜ吉祥寺署の方に?」
長谷川は、警戒心を全く表に出さない滑らかな口調で尋ねてきた。
応接室は狭く、丸いテーブルと椅子が二脚あるだけだ。壁に何も飾られていない。窓もない。
「少し確認したいことがあります。現在、当署で追っている組織的な不法就労事案に関しまして、川本百合さんのお名前が出てきまして、生前の彼女がどのような人物だったのか、その交友関係や生活状況を知りたいと思いまして」
「なるほど、さようですか。しかし、不法就労事案とは関係ないと思いますが」
「そうですね。ちなみに、こちらは、どういった法人ですか」
「警視庁職員の退職後の生活支援や、現職職員の福祉に関わる業務を行っている法人です。警視庁の関連団体として設立されています」
伊場は、少し驚いた。
警視庁の関連団体。川本は、警察OBが集まる法人に勤めていた。
「川本さんは、こちらでどんな仕事をしていましたか?」
「事務局スタッフとして、四月から在籍していました。主に書類管理や連絡調整です」
「四月からということは、以前は別のお仕事を?」
「警視庁の職員でした。三月に退職されて、四月から当法人に入られました。お聞きになっていませんでしたか?」
「元警官ですか?」
「ええ。高卒で警視庁に入庁しましてね。いくつかの署を回った後、直近では本部の警務部厚生課に在籍していました」
長谷川の口から語られた事実は、伊場の想像を超えていた。
川本百合は、単なる一般人ではなかった。今年の三月まで、警視庁本部の、それも警務部厚生課に籍を置いていた「本物の身内」だったのだ。
「退職後すぐに、こちらへ来たということですか?」
「警視庁からの斡旋と伺っています」
警視庁の斡旋。退職後に、警察関連の法人へ送り込まれた。天下りとは少し違う。まるで、誰かが川本をここに置いておきたかったかのような。
「川本さんの、職場での様子はどうでしたか」
「......真面目な方でした」と長谷川は言った。少し選んでいるような口調だった。「きちんとしていて、余計なことを話さない人で。お昼もいつもひとりで、デスクでお弁当を食べていましたし、仕事が終わればまっすぐ帰宅していました。恋人がいるような気配も、ご家族の話も、一度も聞いたことがありません。本当に、生活のバックボーンが全く見えない子でした。ですから、おたくの言う『不法就労ブローカーとの接点』など、ほんとうに何かの手違いだと思いますよ」
長谷川の言葉は一見、川本を擁護しているように聞こえたが、その眼光は伊場の反応を克明に観察していた。
「川本さんが事故に遭われた六月一日ですが、こちらに勤務されていましたか?」
「いました。ふだんどおり、五時半過ぎに退勤されていると思います」
勤め帰りに、板橋にある産婦人科に行き、そこから、自宅へ帰る途中で事故に遭ったことになる。
「ご友人はいらっしゃいましたか?」
「職場の人間との付き合いが、ほとんどすべてだったと思います。外に知り合いがいるという話は、聞きませんでした」
「付き合っていた方は?」
「それは......わかりません」
長谷川の顔が、少し固くなった。川本のプライベートを話すことへの、本能的な抵抗だろうか。
「川本さんは、身寄りはいましたか?」
「詳しくは存じませんが、お身内は極端に少ないと伺っていました。緊急連絡先の欄も、ほとんど空欄でした」
天涯孤独に近い。
伊場は、川本百合という女の輪郭を頭の中で描こうとした。
元警察官。警務部厚生課を三月に退職。警視庁の斡旋でみらい共援会へ。二十九歳。独身。身寄りなし。友人なし。恋人なし。
まるで、周囲に何も残さないように生きていた人間だ。それが妊娠......。
「川本さんをこちらに紹介したのは、どなたですか」
「警視庁の人事を通じて、とだけ伺っています。それ以上は、わたくしの口からは」
長谷川はそこで言葉を切った。
川本の写真はないかと尋ねると、長谷川は「個人情報ですので」と、やんわり首を振った。
伊場は礼を言って、立ち上がった。
応接室をあとにする。壁に目がとまった。警視庁の組織図と、過去の表彰状の写しが貼ってある。警視庁の紋章が入った理事名簿もあった。ほとんど、現職の幹部のようだ。川本という女は、どうして警視庁の職をなげうって、ここに移ったのだろう。建物を出て、駐車場に停めてある車に戻った。
スマートフォンで楠本クリニックを検索してみた。ヒットしない。
板橋 中台 産婦人科
それでも表示はなかった。
〈つづく〉