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- 連載小説「報復捜査」 第1回 安東能明
殉職した公安部の刑事が追いかけていた事件に隠された真実とは!?
プロローグ
六月五日土曜日の深夜。
伊場恵介(いばけいすけ)の携帯が鳴った。
時計を見ると、午前一時を回っている。
画面には「小暮和孝(こぐれかずたか)」の名前。
中学時代からの親友であり、警視庁公安部外事二課(ソトニ)の刑事だ。
誕生月が同じで、ふた月前、ともに三十三歳になった。
伊場はオンボタンを押した。
「もしもし。おまえ、また飲んでるのか?」
小暮は、よく酔っぱらって伊場に電話をかけてくる。
「......ああ」
電話の向こうで、グラスの氷が鳴った。
「またひとりで飲んでるのか?奥さんは?」
「......もう寝てる」
「そうか」
沈黙。
「おまえこそ、どうなんだよ。彼女は」
「いない」
「マジか」
「マジだ」
伊場は苦笑した。
「相変わらず、仕事ばかりだな」
小暮が笑った。
「おまえもだろ」
沈黙。
やがて、小暮がぽつりと言った。
「なあ、伊場。中学の頃、覚えてるか?」
「どうした、急に」
「おまえとおれ、担任に怒られて、廊下に立たされたこと」
「......ああ、あったな」
たしか、中学二年のときだ。
小暮が不良にからまれている同級生を助けて、伊場も加勢した。
結局、双方が停学処分になりかけて、担任に散々説教された。
「あのとき、おまえ何て言ったか覚えてるか?」
「......さあな」
「『悪い奴を放っておけなかった』って」
小暮の声が、少し笑った。
「馬鹿正直だと思ったよ」
「おまえもだろ」
「まあ、そうだな」
グラスの氷が、また鳴った。
「伊場、おまえは――あのままでいてくれ」
「あのまま?」
「中学の頃の、馬鹿正直な伊場のまま」
小暮は言葉を切った。
「おれみたいに、ならないでくれ」
「おい、どういう意味だ」
「......何でもない」
小暮は、また笑った。
「酔っぱらいの戯言(ざれごと)だ。すまん、こんな時間に」
「小暮――」
電話が切れた。
伊場は携帯を見つめた。
小暮の声には、妙な響きがあった。
何か大切なものを失いかけているような......。
いや、怯えていた?
「おれみたいに、ならないでくれ」
あの言葉は、何を意味していたのか。
伊場は、もう一度電話をかけようかと迷った。
だが、時計は午前一時を回っている。明日、署で会ったときに訊けばいい。
そう思い直して、携帯を置いた。しかし、胸の奥に引っかかるものが残った。
まるで、小暮が何かを告げようとして、言えずにいたような。
その言い残されたものが何だったのか、そのときの伊場は、知るよしもなかった。
1
吉祥寺署から五百メートルほど離れた雑居ビルの屋上に、伊場恵介巡査部長は立っていた。六月七日月曜日、午後一時三十二分。所属は吉祥寺署刑事組織犯罪対策課、強行犯捜査係。右手に握ったSAKURAM360Jのグリップが、手のひらの汗を吸ってじっとりと重い。銃口の先が、呼吸に合わせてわずかに揺れる。それを、伊場は奥歯を噛んで抑え込んだ。
照準の先、約十五メートル先に、阿久津行夫(あくつゆきお)がいる。歳は五十代半ば。痩せた身体(からだ)に、ワイシャツが汗で張りついている。右手に包丁を握り、左腕で五歳ほどの女児を抱え込んでいる。女児の喉元へ押し当てられた刃が、ぎらりと陽光を撥(は)ね返した。女児の泣き声が、いまにも切れそうな細い糸のように、熱を帯びた屋上を伝っていった。
誰も動けなかった。動けば、刃が落ちる。
受令機から入る音声が、耳の奥を冷たく震わせる。
『――SAT、配置完了。各ポイント、スタンバイ』
早い。事件の発生から、まだ三十分と経っていない。それなのに警備部の特殊急襲部隊がもう展開し、向かいのビルの窓には狙撃銃の銃口が鈍く光っていた。六月の陽が、首筋を灼く。伊場はグリップを握り直した。手のひらの汗が、すぐにまた滲んでくる。
ことが動いたのは、一時過ぎだった。朝から管内の連続空き巣の参考人の自宅周辺を張り、いつ同行を求められてもいいように拳銃を携行していた。男は現れず、空振りのまま署へ戻る道だった。耳の受令機に、無線が割り込んだ。
『全署員に告ぐ。留置中の阿久津行夫が逃走。吉祥寺本町二丁目のビルに立てこもり。人質ひとりあり。至急、現場へ集合せよ。繰り返す――』
警邏中のパトカーに飛び乗り、サイレンを鳴らして現場へ向かった。阿久津行夫という名前には、覚えがあった。月はじめに生活安全課保安係が挙げた、不法就労助長の男だ。大久保で人材派遣会社をやり、吉祥寺の中華料理店に中国人留学生を流していたブローカー。事案としては小さい。その男が逃げ、人質まで取る。歯車が一枚、どこかで噛み合っていない。
奇妙だったのは、二週間ほど前から本部の公安部外事二課の刑事が来て、阿久津を単独で取り調べていたことだ。その刑事が、小暮和孝――小学校からの親友だった。先週、留置場で被疑者が暴れたという噂が署内を流れた。あれと、無関係には思えない。
この数日、小暮は伊場を避けていた。廊下ですれ違っても目を合わせない。声をかける隙もなかった。ただ一昨日の深夜、小暮のほうから電話が来た。酔った声で、とりとめのない昔話をした。最後に、ふいに声が沈んだ。
「おれみたいに、ならないでくれ」
あの一言が喉に引っかかったまま、まだ降りていかない。
いまは、考えるな。
現場に着くと、すでに規制線が四方に張られ、野次馬が遠巻きに集まっていた。線をくぐり、ビルへ駆け込む。四階建ての雑居ビルだった。屋上へ続く階段の踊り場に、刑事課の同僚が五人ほど固まっていた。
「伊場、来たか」
刑事組織犯罪対策課長の新井貴弘(あらいたかひろ)警部だった。五十代後半で、伊場の直属の上司にあたる。現場では迷いのない男だ。
「状況は」
「阿久津が女の子を人質に取ってる。五歳。保育園からの帰りを攫われたらしい」
新井の眉が、険しく寄っている。
「どうやって逃げたんです」
「取り調べ中に、いきなり暴れて、取調官を突き飛ばして逃げた」
「取調官は小暮刑事?」
「そうだ。立会いの若いのも一緒だったが、突き飛ばされて止められなかったらしい」
胸の底が、わずかに重くなった。
「本部から来てたんだろう。調べの中身は、ほとんど小暮ひとりで握ってたって話だ」
本部のソトニが、なぜ吉祥寺署の小さなヤマを、ここまで抱え込んでいたのか。所轄の生活安全課は端から外され、調べの中身を握っていたのは小暮ひとりだったという。
「警報ボタンは?」
「押したそうだ。鳴らなかった」
「故障ですか」
「いま調べてる」
新井は、屋上へ続く階段を見上げた。
「とにかく人質の救出が最優先だ。伊場、おまえは屋上の給水塔の陰につけ。阿久津にいちばん近い。いいな」
「了解しました」
腰のホルスターから拳銃を抜く。SAKURAM360J、回転式の五連発だ。柔道で鍛えた肩に、汗で湿ったシャツが張りついた。三十三になっても、体だけは頑丈なままだ。訓練では何度も撃ってきた。生きた人間に向けて引き金を引いたことは、一度もない。
〈つづく〉