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- 連載小説「報復捜査」 第3回 安東能明
殉職した公安部の刑事が追いかけていた事件に隠された真実とは!?
第3回
2
現場から病院まで、どうやって運ばれたのか、伊場は覚えていない。
規制線の外で空を見上げ、目を閉じた。次に像を結んだとき、伊場は車の後部座席にいた。誰かが腕を取り、押し込んだのだろう。記憶のあいだに、抜けた穴がいくつもあった。サイレンが鳴っている。自分の乗る車のものか、前を走る救急車のものか、判然としない。窓の外を景色が滑り、六月の午後の光がまぶしかった。隣に誰かがいて、何か話しかけられた気もするが、声は届かなかった。
右手に、まだ感触が残っていた。引き金を引いたときの固い抵抗も、弾けるような反動も、手のひらに染みついた銃の重さも、まだ消えていない。その拳銃をいつ手放したのかも、覚えていない。屋上で撃った直後、誰かが肩を抱え、手から何かを取り上げた。気づくと、腰のホルスターは空だった。あとで聞けば、現場で規定どおりに押収されたという。証拠品として差押えられたその手続きを、伊場は何ひとつ覚えていなかった。自分の撃った銃がいま、どこにあるのかも。
病院の玄関に着いたとき、伊場は車から転げ出るようにして走り出していた。廊下に入ると消毒液の匂いが鼻を突いた。天井に白い蛍光灯が長く続いている。靴が床を叩く音だけが、やたらと大きく聞こえた。救急隊員たちの背中を追って角を曲がると、ストレッチャーが見えた。首はガーゼに覆われ、点滴のチューブが伸び、酸素マスクが口を覆っている。白いワイシャツが、赤く染まっていた。
「小暮!」
声が、廊下に響いた。女性看護師が伊場の前に立ちふさがった。
「手術前です。お待ちいただかないと」
「一分でいい。三十秒でいい」
看護師は一瞬、伊場の目を見た。それから半歩、脇に退いた。
小暮は目を閉じていた。顔色が蝋(ろう)のように白い。酸素マスクの下で、胸がかすかに動いている。首に当てられたガーゼは、すでに赤く滲んでいた。
「小暮」
伊場は、ストレッチャーの縁に手をあてた。自分の手が震えているのに、そのとき気づいた。
「小暮、聞こえるか」
まつ毛が、ゆっくり動いた。瞼(まぶた)が薄く開いた。焦点が合っていない目がゆっくり動いて、伊場を探した。そして、止まった。
「......おまえのせいじゃない」
声は、ほとんど空気だった。唇が動いて音が漏れるだけのような声だったが、伊場には聞こえた。
「絶対に......警察を辞めるな」
それだけだった。目が、また閉じた。手術室の扉が開き、医師たちがストレッチャーを引き取った。分厚い扉が音もなく閉まり、手術中の表示灯が赤く点った。
伊場は、壁に手をついた。
足が、崩れそうになった。
新井が廊下のベンチに伊場を引き寄せ、隣に腰を下ろした。何も言わなかった。ふたりで、赤い表示灯を見続けた。
それから十分ほど経った頃、廊下の奥から足音が聞こえた。
小暮圭子(けいこ)だった。
制服の女性警官に付き添われて、半ば走るようにして来た。三十代の初め、細面のおとなしそうな女で、小暮とは十年近い付き合いになる。伊場も小暮の自宅に幾度となく上がり込んで、圭子の手料理を馳走になってきた。その女がいま、顔面を蒼白にして、廊下に立っていた。手術室の扉と表示灯を見た瞬間、圭子の顔からすべての表情が抜け落ちた。
「......和(かず)くんは」
声が、震えていた。
「手術中です」と新井が答えた。「ここで待ちましょう」
圭子は頷いたのか頷かなかったのか、わからなかった。ただ、ベンチに腰を下ろした。伊場の隣に、新井を挟んで座った。それから一言も話さなかった。話せる状態ではなかった。視線は手術室の扉に固定されたまま、ときおり、唇だけが小さく動いた。何かを呟いているのか、それとも呼吸を整えようとしているのか、伊場には判別できなかった。
三人で、赤い表示灯を見続けた。
廊下には、いつの間にか人が増えていた。制服の警官や背広の男、署から来た同僚の刑事たちが立っている。誰かが何か話しかけてきたが、内容が届かなかった。耳の奥で、ずっと高い音が鳴り続けている。
おまえのせいじゃない。手術室の前で、小暮はそう言い残した。なぜ、いま、それを言ったのか。撃ったのは自分の弾だ。あいつの首を貫いたのは、ほかの誰でもない。
屋上の場面が、繰り返し蘇る。射線上に現れた小暮は、蒼白の顔で、目を血走らせていた。その銃口が、伊場に向いた。本気で撃つつもりだと思った。だから、撃った。本当に本気だったのか。いまとなっては、確かめる術がない。
午後四時二十二分、手術室の扉が開いた。マスクをずらした外科医が出てきて、伊場の目を見た。何も言わなかった。その目が、すべてを語っていた。外科医は新井に近づき、低い声で短く告げた。新井の背中が、一瞬こわばった。
それだけで、わかった。
圭子も、わかったのだろう。外科医の顔を見た瞬間、両手を膝の上で固く握り合わせた。それから、声もなく俯いた。
新井が振り返った。
「伊場」
名前を呼ばれた。それだけだった。それ以上は、何も要らなかった。
涙は出なかった。悲しみは、まだ形をとっていない。ただ、体の真ん中が、洞のように虚ろだった。
吉祥寺署の霊安室は、地下にあった。エレベーターを降りると空気が変わった。冷たく、湿っている。六月とは別の季節の匂いがした。
小暮は白いシーツに覆われて横たわっていた。顔だけが出ていて、首元には白い包帯が巻かれている。目は閉じていた。表情は、穏やかに見えた。
圭子が小暮の顔を見た瞬間、肩が震えた。膝が折れそうになるのを、伊場は横から支えた。圭子は小暮の頬に指先を触れて、声を上げて泣き出した。か細い、しかし深いところから絞り出されるような声だった。
伊場は圭子の肩に手を添えたまま、小暮の顔を見ていた。
一昨日の電話を思い出した。グラスの氷が鳴った。小暮は酔っぱらって昔話をしていた。馬鹿正直だと思ったよ、と笑っていた。昨夜の様子を圭子に訊きたかった。だが、いまは訊けない。圭子が泣き止む気配はなかった。伊場は黙って、圭子を支え続けた。
ふと、思った。圭子の夫の命を奪った自分が、こうして傍(かたわ)らにいる。圭子が事情を知ったら、どう思うか。その考えを向こうに押しやった。
どれくらい時間が経ったか。やがて新井が霊安室に顔を出して、明日の手配が整ったと告げた。午前中は大塚の監察医務院で司法解剖後、小暮の住んでいる西窪(にしくぼ)住宅近くにある葬儀場で通夜を行うという。圭子は「司法解剖も?」と言いかけて、それ以上は言葉にならなかった。新井は警察として出来る限りのことをしたいと説明した。その言葉に嘘はないのだろう。だが、伊場の胸には引っかかるものがあった。
手際が、よすぎる。
事件が起きたのはきょうの昼過ぎだ。小暮が死んでから、まだ数時間しか経っていない。それなのに、通夜の葬儀場まで押さえてある。司法解剖は仕方ないが遺体の搬送も整っている。どれほど段取りがよい組織でも、ここまで早いのはおかしい。いや、すべてはマニュアルどおりに進んでいるということか。
伊場はその考えを、胸の奥に押し込んだ。いまは、それを口にする状況ではなかった。
圭子は女性警官に付き添われて自宅へ送られていった。扉が閉まる直前、圭子はもう一度小暮の顔を振り返って見た。それから、静かに廊下へ出ていった。
霊安室を出た廊下で、伊場は清川を見つけた。三十歳で、生活安全課の防犯係に所属している。きょうの事件でも現場にいた。宿直当番でいつも顔を合わせる男だ。一階の壁際に立って、そわそわした様子でスマートフォンを見ていた。
「清川(きよかわ)」
声をかけると、清川は顔を上げた。
「小暮が拳銃を持っていた経緯を、知ってるか」
清川の表情が、わずかに変わった。目が、泳いだ。
「それは......」
「誰かが貸与したはずだ。手続きがあるだろ。何か聞いてるか」
「伊場さん、おれには......」
「知ってるのか、知らないのか」
怒鳴り声になった。
「......ほんとに知らないです。おれは」
口調は否定していた。だが、目が違うことを言っていた。伊場がさらに踏み込もうとしたとき、廊下の奥から複数の足音が聞こえた。
振り返ると、ふたりの背広姿の男が歩いてくる。先頭に立つのは五十代、痩せて背が高く、顔の彫りが深い。顔全体には細かい皺が刻まれているが、感情を置いてきたような目をしていた。後ろに半歩引いた男は、四十代の初め、がっちりした体格で、表情がない。伊場の位置と足元を、素早く一度だけ確認した。どちらも、動きに迷いがなかった。先頭の男が伊場の目を見た。
「伊場恵介巡査部長ですね」
「そうです」
「監察の垣内(かきうち)です。こちらは山口(やまぐち)。本部まで同行をお願いします」
「いますぐですか?」
「はい」
声に抑揚がない。感情を乗せない訓練を受けた人間の声だ、と伊場は思った。清川が、背後で息を吞んだのが聞こえた気がした。
〈つづく〉