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原爆誕生の地で振り返る「長崎の悲劇」

下村脩(米ボストン大学名誉教授)

2013年08月19日 公開 2022年12月21日 更新

『Voice』2013年9月号より

 

ノーベル賞受賞者が訪れた米国ロスアラモス国立研究所とは

心の底にうずくまる残酷な光景

 1945年8月9日、私は学徒動員で、諌早郊外の山間にできた海軍航空廠のバラック建て工場で働いていた。その年3月に中学校(旧制)を4年で卒業したことになっていたが、継続して働かされていた。その工場は零戦のエンジンの整備修理工場で、私の仕事はクランクケースの擦り合わせと称する段階であった。しかし、4月以後、神風特攻による飛行機の消耗で修理するエンジンはほとんどなかった。

 朝11時少し前に空襲警報のサイレンが鳴った。私はいつものように2、3人の友人と工場のそばの高台に上がって空を眺めた。1機のB―29が北の空から南の長崎のほうに向かっていた。

 コースがいつもと違うのでなぜだろうと訝っていたら12㎞くらい離れた長崎の近くでパラシュートを2つ3つ落とした。それを目がけたらしく散発的な銃声がしたが、よく見るとパラシュートにぶら下がっているのは人間ではない。2、3分後にもう一機のB―29が現れ、同じコースで長崎上空に向かった。

 ちょうどそのとき、空襲警報が解除になったのでわれわれは工場に戻った。作業用の椅子に座った途端、私は強烈な閃光に襲われた。小さな窓から入った強い閃光で目がくらみ、しばらく何も見ることができなかった。そして閃光の約40秒後に轟音が襲った。それは音というよりむしろ気圧の急激な変化であり、耳がしばらく聞こえなくなった。

 その後の2カ月間に見た悲惨な残酷な光景のショックは強烈で、私の人生観を変えた。被災者の収容所になった中学校の校庭でそぞろ歩きしていた半裸の男たち、彼らの血膿で黒く覆われた背や腕をはい回る白いうじ虫、亡くなった人たちをむしろにくるんで馬車に積み重ねる作業、そして、その作業をじっと見つめる被災者たちの目など、それらのすべては私の脳裏に焼き付いた。

 長崎の工場で被災した親友が、9月末に帰郷の途中、わが家で1泊した。彼の顔は誰だか判別できないほどひどいケロイドで覆われていた。当時、放射線を直接受けた人たちは次々と死んでいたのであるが、彼は平然としていた。間もなく死ぬであろう彼を前にし、明るく楽しく振る舞おうと努めても私にはそれができなかった。苦しい一夜であった。

 私は原爆のことは思い出さないように努めていたが、それはいつも私の心の底にうずくまっており、消え去ることはなかった。

 1995年の50周年記念のとき、地元新聞の『ケープコッドタイムズ』に頼まれて長崎原爆の思い出の一文を寄稿した。それは、皮肉にも長崎に原爆を落としたB―29の機長の文章と並べて掲載された。彼もこの地、ケープコッドに住んでいるのである。

 

原爆製造の地からの招待状

 昨年2月にロスアラモス国立研究所のジョン・ピアーソン博士からメールを貰った。息子の努が同研究所にいたころの親友だといい、講演の依頼であった。ニューメキシコ州ロスアラモスは極秘のマンハッタン計画により、広島と長崎を廃墟にし、多数の人命を奪った原爆を製造した場所である。たんなる興味以上の、1度は見なければならないという気持ちがあった。

 しかし昨年は旅行予定で詰まっていたので、いつか機会があったら行きますと返事をした。ところが、11月にその研究所の所長であるチャールス・マクミラン博士から丁重な公式の講演招待状が届いたのである。断ることも、これ以上延ばすこともできないと思い、2013年4月18日の講演を約束した。

 4月17日朝、ボストンマラソン爆弾事件の2日後である。私は妻と厳重な警戒のボストンのローガン空港からテキサス州ダラス空港に飛んだ。広大なダラス空港は初めてであったが、よくできた空港で、シャトルを使ってニューメキシコ州サンタフェ行きのゲートまで楽に行けた。

 ところがサンタフェ行きの出発時刻になっても乗せてくれる気配がない。私は心配になりカウンターに行って聞いてみた。ところが「まだ飛行機が着いていないのです。それに、客室乗務員が見つからないのです」との返事。客席60余りの小型機であったが、やっと代わりの客室乗務員が現れ(家から呼び出されたらしい)、1時間半遅れでサンタフェに到着した。

 どうもこの便にはこのようなことがしばしばあるらしく、他の客は大して気にしていないようだった。のんびりした人が多い土地のようである。

 サンタフェは古い歴史を誇るニューメキシコ州の州都であり、有数の観光地でもある。しかし、その空港があまりに小さいのには驚かされた。飛行機から地面に降り立てば、数歩歩いただけで到着ロビーであり、そこにはピアーソン博士とオレゴンから来た息子が出迎えにきてくれていた。

 雪が少し降っていたが、息子の車でロスアラモスへ向かう。もう暗かったが道端の木や林が霧氷で美しかった。道はかなり登りである。右手にリオグランデの断崖渓谷がかすかに見える。グランドキャニオンほどではないが似ている。ロスアラモスは約70年前(1942年)に初代研究所長ロバート・オッペンハイマー博士が機密保持のために選んだというが、それが頷ける辺鄙な場所にある。

 約40分でロスアラモスに着き、予約してあったヒルトップホテルに行くと何だか様子がおかしい。ロックしてあるドアを叩いたら、人が出てきて「このホテルは4月1日に閉店しました」という。予約確認もとってあるのに、どうなっているのかと思ったが、ピアーソン博士がすぐに代わりのホテルを探してくれた。

 4月18日朝、初めて見たロスアラモスの景色は少し異様であった。ロスアラモスは標高2200mの台地にあるが、町を囲む山々は褐色がかった色で、そのはるか向こうに銀白の雪の山脈が見える。山が緑でないのは2000年と2011年の2度の山火事のためで、その際は2週間も強制避難させられたという。長崎の原爆のあとも周囲の山は同じように褐色になったが、翌年は緑を回復した。この辺は高地で寒く、かつ乾燥しているので回復が遅いのであろう。

 指示されていたとおりに、11時5分前に研究所のバッジオフィスに行った。3カ月以上前から身元調べをしていたはずなのに、さらに旅券とビザを調べられ、写真を撮られ、やっとバッジを貰う。研究所内の通行証である。多数の人がバッジを貰うために待っていたが、彼らは科学者には見えなかった。カメラ、携帯電話、すべての電子機器は持ち込み禁止であった。

 私の講演をサンフランシスコから聞きにきた『ニューヨークタイムズ』記者ジョン・マルコフ氏は係員に同行され、つねに監視されていたそうである。

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広島・長崎は歴史のひとかけらにすぎないのか

著者紹介

下村脩(しもむら・おさむ)

米ボストン大学名誉教授

1928年、京都府生まれ。長崎医科大学附属薬学専門部(現・長崎大学薬学部)卒。理学博士(名古屋大学)。名古屋大学助教授、プリンストン大学上席研究員、ボストン大学客員教授、ウッズホール海洋生物学研究所上席研究員を経て、現職。2008年、緑色蛍光タンパク質の発見と開発の功績により、ノーベル化学賞を受賞。
著書に、『クラゲに学ぶ』(長崎文献社)、『クラゲの光に魅せられて』(朝日選書)などがある。

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