「中華思想」というワードは日本で広く知られている。しかし、外交政策研究所代表の宮家邦彦氏は、中国に「中華思想」という言葉や考えは存在しないと指摘する。実際の中国人が持つ考え方とはどのようなものか、解説する。
※本稿は宮家邦彦著『語られざる中国の結末』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。
存在しない「中華思想」という言葉
日本人の多くは、中国をめぐる諸悪の根源が「中華思想」だと信じてやまない。しかし、一般の中国人には、自分たちが「中華思想」なるものに基づいて行動しているという意識はまったくない。
それどころか、中国語には「中華思想」という言葉すら存在しない。「中華思想」とは、おそらく日本人の造語である。
数年前に「中国脅威論」が一世を風靡したころ、日本では「中華思想」を「信奉」する中国政府、中国人を糾弾する書籍が巷に溢れていた。13億人の人口を抱える不透明な巨大国家の真の意図は何なのだろうか。中国人の本来の発想とは異なる「陰謀論」が独り歩きを始めたのも、ちょうどこのころである。
中国人の驚くべき尊大さ、身勝手さ、狡猾さなるものの理由を解く鍵は、ほんとうに「中華思想」にあるのだろうか。ここからは中国近代史を駆け足で振り返りながら、このわかったようでわからない、摩訶不思議な「中華思想」なるものについて考えたい。
2000年夏、筆者は北京赴任前に1冊の「中華思想」関係書籍を購入したことがある。同書は、現代中国の大国意識や民族主義、周辺諸国への蔑視観の根底に、儒礼を守る文化的な「中華」と周辺の野蛮な「夷狄」という伝統的国際秩序観がある、と頭から決めつけていた。
一見、もっともらしい「陰謀論」的仮説だが、実際に北京で親しくなった中国人に聞いてみたら、意外にも「中華思想? それはいったい何ですか?」と逆に問われてしまった。日本人が当たり前のように使う「中華思想」も、中国ではあまり一般的な言葉ではないようだ。
疑問に思って徹底的に調べてみたが、このことは日本留学経験のある中国人たちの多くが異口同音に認めていた。最近の中国語のブログもいくつか覗いてみた。中国では「中華思想」のことなど教科書に書かれていないし、学術的にもこれを研究・考証する専門家はいないという。
しかし、考えてみれば、中国人に「君は中華思想の持ち主か」と問うのは、欧米白人に「君は白人至上主義者か」と問うのと同じくらい意味のないことだ。地球上のすべての民族・人間集団は、大なり小なり、エスノセントリック(自民族中心主義的)だからである。
「ジコチュウ」という点なら、アラブ人も中国人に負けてはいない。カイロ、バグダッド、北京に合計8年間住んだ個人的体験から申し上げれば、両者のメンタリティは驚くほど似通っていると思う。典型的な5つの共通点を挙げてみよう。
その1 世界は自分を中心に回っていると考える
その2 自分の家族・部族以外の他人は基本的に信用しない
その3 誇り高く、面子が潰れることを何よりも恐れる
その4 外国からの経済援助は「感謝すべきもの」ではなく、「させてやるもの」だと考える
その5 都合が悪くなると、自分はさておき、他人の「陰謀」に責任を転嫁する
もうおわかりだろう。これらはいずれも開発途上国に概ね共通する「対先進国劣等感」の裏返しだ。中国思想史や中国政治論などの学術的、専門的立場から十分検証することなく「中華思想」なる概念を定義し、それに基づいて現代中国の行方を一方的に語ることは、空虚な議論である。
では、「中華思想」なるものは日本人の勝手な創作なのかというと、それも違うだろう。中国人が認めなくても、彼らの自己中心的世界観は厳として存在するからだ。
真の問題は、古代から続くいわゆる「華夷思想(中国ではこの用語のほうが一般的である)」が近代以降、変化しつづけていることだろう。
学術的な「中華思想・華夷思想」研究は、中国本国より、むしろ周辺国で盛んなようだ。当然、日本にも優れた研究や鋭い考察が少なくない。研究者のあいだでは、この「華夷思想」が19世紀のアヘン戦争前後から変容しはじめたことについて、概ねコンセンサスがあるようだ。
文化的に進んだ「中華(夏)」と劣った「夷狄」の存在を前提とする「華夷思想」は、中国が優越していなければ成り立たない。ところが、アヘン戦争と日清戦争によって、この「華」が「夷」より優れているという前提自体が破壊されてしまったのだから、話は厄介なのである。
先ほど説明したとおり、「中体西用」をスローガンとした19世紀後半の「洋務運動」や、国家制度の変革をめざした19世紀末の「変法自強運動」なども、このような中国政治の危機的状況のなかから生まれたものだ。
「洋務運動」の前後から、それまで「夷狄」だったヨーロッパ人が突然、「中華」と同格になった。日清戦争後は、「東夷」であった日本までもが「中華」を凌ぐようになった。もう「華夷思想」だけでは説明できない。アヘン戦争以降、中国は新たな国家像と国際秩序モデルの模索を強いられたのである。
こうした状況を生き生きと描いたのが、魯迅の『阿Q正伝』だ。欧州列強の植民地支配に直面した中国民衆の権力者に媚びる卑屈な姿を描いたこの作品は、同時に、「華夷思想」を失っただけでなく、精神的優越感までも喪失した魯迅ら中国知識人たちの魂の叫びでもあった。
当時の中国知識人が考えたのは、伝統的な「中華」の担い手である「漢族」を、当時の支配者である「満族」から解放することによる国家再建だった。いわゆる「滅満興漢」運動である。
しかし、ここで漢族、中華に言及したこと自体、当時、彼らが伝統的な「華夷思想」と決別できなかったことを示している。「華夷思想」とは、かくも普遍性を欠いた民族主義的なDNAであったのだろう。
20世紀に入り、中国はさらなる激動の時代を迎える。1912年、満族駆逐、中華回復、衆議政治を唱えた孫文が中華民国を建国した。1949年には、毛沢東率いる中国共産党が中華人民共和国を建国した。1978年末、鄧〈トウ〉小平は非効率な社会主義と決別すべく、改革開放政策を始めた。
振り返ってみれば、欧米列強の脅威に直面した中国の歴代政治指導者は、西洋文化を拒否しながらも、「華夷思想」に代わる新たな国家観・世界観を確立しようとしたようだ。残念ながら、これらの試みはいずれも失敗に終わったように思える。
しかし、同時に、近代中国のさまざまな改革により、古代から継承されてきた中国人の「華夷思想」というDNA自体が徐々に変容しはじめていることも忘れてはならない。やはり、現代中国の尊大さ、身勝手さ、狡猾さの原因が「中華思想」や「華夷思想」にあると断ずることには、やや無理があるのではないか。
むしろ、中国がその古めかしい「華夷思想」を十分克服しきれず、アヘン戦争から170年経っても、欧米諸国に対し、新たな中国の国家像・国際秩序モデルを示しえないことへの「劣等意識」こそが、中国政治停滞の最大の原因ではないだろうか。
【著者紹介】
宮家邦彦(みやけ・くにひこ)
1953年神奈川県生まれ。外交政策研究所代表。78年東京大学法学部を卒業後、外務省に入省。76~77年米ミネソタ大学、台湾師範大学、79年カイロ・アメリカン大学、81年米ジョージタウン大学で語学研修。
82年7月在イラク大使館二等書記官、86年5月外務大臣秘書官、91年10月在米国大使館一等書記官、98年1月中近東第一課長、同年8月日米安全保障条約課長、2000年9月在中国大使館公使、04年1月在イラク大使館公使、イラクCPA(連合国暫定当局)に出向、04年7月中東アフリカ局参事官などを歴任。05年8月外務省を退職し、外交政策研究所代表に就任。06年4月より立命館大学客員教授、09年4月よりキヤノングローバル戦略研究所研究主幹。06年10月~07年9月、総理公邸連絡調整官。