世界に「最高の一枚」を――写真業界を牽引する情熱と行動力
2013年10月28日 公開 2024年12月16日 更新
《『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2013年11・12月号 特集 志を立てる より》
世界に「最高の一枚」を提供し続ける青木氏が胸に秘める熱い志に迫った。
<レポート:江森 孝/写真撮影:永井 浩>
若き日の夢は映画評論家
主にスポーツ写真の分野で日本を代表する現役カメラマン。一方で、同業者であるカメラマンから作品を預かり代理で貸し出す、フォトエージェントの経営者。2つの顔を持つ青木紘二さんと写真との出合いは、富山での子ども時代にさかのぼる。
「父は医師でしたが、趣味で患者や漁師の写真を撮るアマチュアカメラマンでもありました。自宅には、レントゲン写真を現像するための小さな暗室があって、あるときそこを四畳半くらいに拡張したんです。自分で撮った写真を現像・プリントするためです。私も写真が好きだったので、小学生になると父がカメラを買ってくれました。それで、私も一緒に暗室に入るようになったのです。父は、私がどんなに紙を無駄にしても、いっさい文句を言いませんでした」
将来のカメラマン育成に向けた英才教育とも思える環境だが、実はカメラマンは青木さんの“初志”ではなかった。写真以上に心を動かされたのが、当時娯楽の王様だった映画だった。
「父は映画も好きで、連れられて映画館に通ううちに、私も好きになりました。父は、映画と本、写真には別枠で小遣いをくれたんです。厳しい人でしたが、そういうものが何かしら子どもの情操教育につながると考えたのだと思います。やがて一人で映画を観に行くようになると、私は映画雑誌を買って、そこに映画評などの文章を投稿するほどのめり込みました」
映画への情熱がさらに高まったのは中学2年のとき。投稿した文章が、雑誌に掲載されたのだ。
「それ以降、調子に乗って少なくとも10回は投稿したでしょう。すると、高校2年では私の記事が大きく取り上げられて3千円をもらったんです。それですっかり舞い上がってしまい、“映画の世界で生きたい”と考えるようになりました」
青木さんが人生で初めて立てた志だった。その志を遂げようと、青木さんはさっそく行動を起こす。自分の大学の講義にはほとんど出ない代わりに、日芸(日本大学芸術学部)の映画学科に顔を出しては、映画評論家の淀川長治(よどがわながはる)氏や荻昌弘(おぎまさひろ)氏が行う講義を“もぐり”で聴いた。
「当時は、真剣に映画評論家をめざしていて、やがて、“映画評論をやるならヨーロッパ思想をしっかり勉強したい”と考えるようになりました。そういうものが肌で分かれば映画で食っていけると思い、スイスのプライベートスクールに留学しました。22歳のときです」
映画に賭ける情熱が、青木さんに海を渡らせたのだ。
スイスのスキー国家教師からプロカメラマンへ
スイスでは、青木さんが子どものころから親しみ、大好きだったスポーツが、みずからの可能性を広げることになった。スキーである。
「スキー学校で、子どもの相手をしたりゲレンデを整備したりするアルバイトをしていたら、校長に気に入られて、スキー教師になるための養成コースに入れてもらったんです。スイスでは、スキー教師は国家資格で、養成費用の半分は国が助成してくれます。そのため、通常は外国人は養成コースに入れないのですが、特例としてコースに入れた。入ってからもたいへんでしたけれど、なんとか資格を取ることができました」
ただ、青木さんに、スキー教師を生涯の仕事にするつもりはなかった。
「学校の教授に相談すると、『きみは人生の岐路に立っている。自分が何をやりたいのか見つけなさい。それに忠実に生きることはすごく大事だ』と言われたんです。しかし、そのころにはもう、映画はあきらめていました」
当時、すでに映画は娯楽の主役の座をテレビに奪われ、映画館もどんどん閉鎖されるような状況だった。
「映画の魅力は捨てがたかったものの、世の流れを見て自分なりに見切りをつけました。それで、何かできるものはないかと考えたときに、やっぱり写真だと思ったんです」
「それと、生意気ですが、フランスのカメラ雑誌に載っている写真を見て、“これくらいならおれにも撮れる”“これがプロの写真ならおれもプロになれる”と思ったんです。それが、プロカメラマンになった直接の動機です」
人生で2度目の志を立てた青木さんは、1975(昭和50)年、プロカメラマンとなった。ある日突然、プロ宣言をしただけの、ライバルも師匠もいないスタートだった。
☆本サイトの記事は、雑誌掲載記事の冒頭部分を抜粋したものです。