切り絵の神様になる!――常に主役であることを求めて
2013年11月08日 公開 2023年01月05日 更新
《『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2013年11・12月号 特集 志を立てる より》
<聞き手:渡邊祐介(本誌編集長)/写真撮影:永井 浩>
絵にコンプレックスを感じた学生時代
――「百鬼丸」という創作名は、手塚治虫氏の漫画『どろろ』の主人公からとったそうですね。
子どものころに読んで、百鬼丸のキャラクターに強く惹かれました。事後ですが、手塚さんにお許しをもらいましたよ。漫画家の友人と出かけた出版社のパーティで偶然お会いしまして、名前の話をしたら、とても喜んでくれたんです。
それから1週間後にご本人から直々に電話をもらい、「アニメのキャラクターをデザインしてほしい」と言われたときにはびっくりしましたね。それが、第2回広島国際アニメーションフェスティバルに手塚さんが出品した『村正(むらまさ)』です。手塚さんとは、それから2年間のおつき合いでした。
――今回のテーマである「志」という点でいうと、子どものころから絵で身を立てたい気持ちがあったのでしょうか。
いいえ、絵で食っていくなんて全然考えていなかったですね。手先が器用だったようで、図工や美術は得意でしたが、特別好きではありませんでした。
絵なんかは、描いている友だちの隣にわざわざ行って、「おれのほうがうまいだろう」と自慢するために描いたりしてました。子どものころになりたかったのはスポーツ選手で、小学校で野球、中学からはテニスをやりました。大学では体育会の硬式テニス部に入って、すぐうまくなって1年生でナンバーワン。2年でスランプに陥り、3年でまたうまくなりました。それは、どうしたらうまくなるかという技法やコツを考えるようになったからです。そして、そうした思考はその後の仕事にも生きています。
テニスのかたわら、学生時代にはギャラリーや美術館にもよく出かけました。ただ、当時流行していたサイケデリック(幻覚的、陶酔的な表現形式)を見に行っても、「どうしてこの絵がいいんだろう」と、首を傾げていました。そのため自分に絵の才能があるとはまったく思っていなかったですし、逆にコンプレックスを感じていました。
――それはとても意外ですね。ところで、大学で建築を専攻されたのはなぜですか。
手先が器用だったからです。図面はほかの人よりもきれいに引けましたよ。当時は建築の勉強がほんとうにむずかしく思えて、「こういうものが理解できない人間に建築は無理だ」と思ってしまったんです。もう少し気楽に考えていたら、今ごろ建築をやっていたかもしれないですね。
大学卒業後、設計事務所には入ったものの、やはり面白くなかったし、自分には向いていないと思い半年で辞めました。「これからはどんな仕事でもできる」と思えたときの喜びはすごかったです。設計事務所を出て、見上げた空の青さに思わず「やったーっ」と叫びそうになりました。
ただ、早く次の仕事を決めないとお金がなくなってしまいます。それで、版画で「恋愛相談室」と彫った名刺をつくり、都内の駅前で女子高生たちに配りました。ぼくは女性にフラれてばかりだったので、同じように恋愛で悩んでいる人がいたら助けてやろうと思ったからです。
ぼくには、世の中の役に立ちたいという思いが根底にあるので、自分に何の才能もないのなら才能のある人を伸ばそうと考えて、小さなモデル事務所のマネージャーになったんです。
ただし設計事務所を辞めたときに、「やるなら職人か社長だ。もうサラリーマンはやらない」と決めていたので、一通り仕事を覚えたら事務所を辞めてすぐに独立し、それから個人で2年ほどマネージャーをやりました。ぼくが世話をしたモデルの中には、のちに有名化粧品メーカーのCMに出た女の子もいます。
独創的な焼物をつくる過程で始めた切り絵
――モデルのマネージャーと、今の仕事とはずいぶん違うように思います。
実はマネージャーという仕事は、とてもクリエイティブだとぼくは思っていて、今でも体が2つか3つあったらやってみたいと思うほどです。でも、あまり仕事は多くなかったので、ずっと続けるのはむずかしいと思いました。
それで、次に何をやろうかと考えたときに、やはり自分の得意種目である、物をつくることだと思いました。そうして選んだのが焼物で、自分の器用さを生かすには急須づくりだと考え、急須で有名な愛知の常滑(とこなめ)に行ったんです。ぼくは山梨の生まれで、海に憧れてもいました。それが常滑を選んだもうひとつの理由です。
ところが、常滑に行くと、弟子にしてくれるはずの先生に、家庭の事情で断られてしまって。それで、別の焼物作家に弟子入りしたのですが、当時ぼくはすでに27歳で、高校を出て弟子入りした同い年の連中はもうみんな独り立ちしていました。ぼくは、「この連中に対抗するにはどうすればいいのだろう」と考えた末、それは焼物に付加価値をつけることだと思ったんです。ろくろを回してつくることは遅かれ早かれできるし、それでは連中に対抗できない。あれこれ考えていたとき、子どものころ、版画を彫らせたらクラスで1番だったことを思い出しました。
それで、焼物の粘土を紙のように薄くして、それをナイフで切れば、ひょっとしたら他人が真似できない焼物ができるかもしれないと考えたんです。やってみると、粘土は湿っていて厚みもあるのでスムーズに切れませんでしたが、その最中に頭の中に図柄が浮かんできて、それを紙にデッサンして切りました。それが、ぼくにとっての切り絵の始まりです。
――焼物から切り絵への転向を決意されたのには、何かきっかけがあったのですか。
ぼくとしては、さして珍しくないだろうし、自分のほかにもやっている人はいるだろうと思っていたのですが、尊敬する人が驚いているのを見て私が驚き、版画と切り絵という違いはあったものの、「プロになれるかもしれない」と思いました。ひょっとしたら焼物より切り絵のほうが早く食えるようになるかもしれないと考え、切り絵作家になると決めたのです。
――「切る」という行為が、ご自身の感覚に合ったということでしょうか。
木でもいいのですが、ナイフで切る感覚がすごく好きなんです。中学生のころに水彩画を描いたときには、筆の毛先が下絵からはみ出すのがすごくいやでした。はみ出したり、にじんだりするのが筆のいいところなのでしょうが、当時のぼくにはそれが分からなくて、やっぱり自分の思い通りの線で、思い通りの顔にしたかった。版画もやはりにじむことがあるし、どうしてもハーフトーンになってしまうのに対し、切り絵は“スキッ”“サッ”という感じで、シャープな見た目が好きです。だから今でも切り絵に大満足だし、ほかのものをやろうかと迷ったことはありませんね。
☆本サイトの記事は、雑誌掲載記事の冒頭部分を抜粋したものです。