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生き方

黒柳徹子の半生「本物には愛が。みんな一緒」

黒柳徹子(女優)

2014年09月08日 公開 2024年12月16日 更新

『窓ぎわのトットちゃん』やNHK放送劇団での苦労や、人気絶頂期の単身渡米、伝説の番組『ザ・ベストテン』や放送40年を迎えようとする『徹子の部屋』。また日本人初のユニセフ親善大使など波乱万丈な人生を送ってきた黒柳徹子さん。その中で人間には、何よりも愛が大事だと確信したと語る。人の成長や幸せのために本当に大切なこととは。

※本稿は、黒柳徹子著『本物には愛が。』より一部抜粋・編集したものです。

 

生放送の現場で倒れて気づいた

――NHKの女優第一号としてスタートしてからは、1日もお休みはなしだったのでしょうか。

私、NHKの専属でしたので、1週間で7、8本のドラマに出て、ラジオも3、4本出てっていう、すごい時代でしたから。5年ぐらい働いたときに、過労になって入院したんですよね。

全部生でしたから、どのディレクターも下りないでくれって言ったんですけど、お医者様が「死んじゃうよ」とおっしゃったんで、それでまあ病院に入ったんです。1ヵ月の入院でした。

その病院でテレビを見ておりましたら、私が一生懸命やっていた司会のものを、ぜんぜん知らない女の人が出てて、「みなさん、こんにちは。今日から私がやります」って、それで終わりなんですよね。

「黒柳さんは1カ月たったら、いらっしゃいます」なんてぜんぜん言ってくれないの。そういうものかと……。

そしてドラマでは、渥美清さんと夫婦をやっていたんです、私。その番組を見てたらね、渥美さんが出ていて、私は出ていないわけです、生ですから。「奥さんは?」って聞かれて、「あ、実家に帰ってます」それで終わりですよ……。

「えっ、実家ってあったっけな?」なんて思う暇もなく、私がいないでもどんどん進んでいくんです。そのとき、これで私が死んだら「実家に帰って死にました」で終わりだなと思いました。

この四角い箱の中だけの生活で、自分の一生終わっちゃうのは大変なことだって思い、退院のときに院長先生に「私、死ぬまで病気したくないんですけど、どうやるんですか?」って伺ったら、「こういう質問は、初めてだ」って。

でも、「自分が進んでやれる仕事だけをやりなさい」と。進んでやれる仕事をやっているとね、肉体の疲れは寝れば治る。だけど、嫌だな、嫌だなと思っている仕事だと、嫌な気持ちはたまっていく。いまでいうストレスですね。

当時はストレスという言葉はなかったです。50年以上前ですから。「自分が進んでやれる仕事だったら、病気にはならないと思う。でもできるかな」って先生がおっしゃったので。それ以来、自分が進んでやれる仕事だけをやるようにしようと心掛けて、ずっと仕事をやっていました。

 

1年間の休業

――忙しいさなか、突然お休みを取りますよね。1年間休業してニューヨークに行かれる。これはどういう気持ちの変化があったのでしょうか。

仕事を始めて15年ぐらいのときです。40年ぐらい前の1971年。もう本当に、降るように仕事があったんですね。ちょうど朝の連続テレビ小説『繭子ひとり』もやって、たくさんお仕事があった。

でもね、ここで1回休んでみないと。学校を出てから一度も、今日は何をしようと思う日がなかったんですね。だから、ここで引き込み線に入るように、ちょっと休んで、もう一回考えて、自分に才能があるのか。これから先、この仕事をやっていけるのかどうかを考えてみようと。

それで、知らない世の中も見てみよう。学校を出てわりとすぐ有名になったので、みなさんに甘やかされているから、全くそういうことのないところに行って、暮らしてみようと。

で、いろいろ探して、言葉の問題やいろいろあって、それから紹介してくださる方があって、ニューヨークの演劇学校に行くことになって。ブロードウェイもあるし。ありがたかったのは吉田なおみさんという、当時、最もいい、というマネージャーがいてくれて。

森光子さんに紹介していただいたんですが、よくわかってくれたマネージャーで、「きっと、それはね、あなたにとっていいことになると思いますよ。行ってらっしゃい」と言ってくれて、それは感謝しています。そういうマネージャーがいてくれなかったら、やっぱり行けなかったですよね。一番忙しいときでしたから。

 

――一番忙しいさなか「自分がテレビに出なくなっちゃう怖さ」みたいな感情はなかったのでしょうか。

ありませんでした。「帰って来て、仕事がなかったらどうするの?」って、ずいぶん言われました。だけど、15年やってきて1年休んで仕事がなかったら、それは、私に才能がないっていうことでしょう。私の存在は、いらないっていうことでしょ。そう思ったので。

帰って来て仕事がなかったら、私は健康だから違う仕事をやればいい。肉体も丈夫なので、何か違うことをやっても。そこで結婚っていう道は考えなかったですね。ほかの仕事をやればいいから、とにかく、いまの私には休みが必要なんだって。

でね、マスコミにたたかれると思ったんです。当時、休みを取っている人なんかいないんですから。ところがね、山岡久乃さんと一緒にドラマをやっていたんですけど、「私たちの分まで休んでいらっしゃいね」っておっしゃってくださって。

沢村貞子さんは「いいけど1年ぐらいだね。2年は長いかもね」っておっしゃってくださったし、森光子さんは「お小遣いが足りなくなったら言ってちょうだいね」って、みなさんご親切に。

芸能界って意地が悪い人がいるとか、みなさんおっしゃるけど、そんなことはないなと思って。「じゃあ、行ってきます」って。それでまあ、ニューヨークにアパートを借りて、1人で生活をしてみようと思って。

――1人暮らしはどうでしたか。

それはね、家にいた方が楽でしたね。びっくりしました。だってね、本当にくだらないんですけど、演劇学校に行くのに朝、りんごを食べて、テーブルにむいた皮はそのまま置いて、時間がないからバッと学校に行って帰って来るでしょ。

そこにりんごの皮があったのを見て「えっ、どうしたの、これ?」って。家では誰かが片付けてくれていたでしょ。それがね、そこにあるのを見たとき、ああ、1人暮らしって、こういうことなんだなあ……と思ってね。

当たり前ですよね、なかったらもっと怖いかもしれないですけどね。それからはとっても、1人暮らしが楽しくなったし、なるたけ外国人の方とお会いするようにして。アメリカ文化を勉強したいと思いましたので。

――外国人の方というのはお芝居の関係ということでしょうか。

ブロードウェイの芝居を毎日見るっていうのは、どういうわけだかあまりしなかったんですが、オーディションに合格するのがどんなに大変なことかとか、仕事がないってどんなに大変かとか。ブロードウェイで演劇学校に行っている人の90%、ほとんどの人が失業しているんですから。そういうのを見たりして。

それからキャサリン・ヘップバーンさんとか。それからヘンリー・フォンダさんとか、そういう方たちのお芝居なんか、いっぱい見たりしましたね。お会いもしました。そして、「ああ、みんな人間が大事なんだ」っていうことが、とてもよくわかって。

昔は、人間なんかどうでも芸さえよければいいというのが主流でしたね、私が若いころは。でも、やっぱり人間が本当に優しかったり、愛に満ちていたりしていないと、いい俳優にはなれないっていうことが、いろんな人に会ってわかってきましたね。どんな芸術家でも。

変わった人もいっぱいいましたけど、やっぱり根底に深い人間愛とか、そういうものがないと、やっていかれないんだなってことがわかったのは、本当に収穫で。ちょうど38歳ぐらいでしたね。いい収穫でした。それから演劇の基礎から習えたのはラッキーでした。いま、すごく役に立っています。

女の人が悩んだりするのも、ちょうどそのころだって言いますからね。まあそれはよかったと思います。

 

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