水上勉・何ども言うようだが…
2015年02月24日 公開 2024年12月16日 更新
《PHP文庫『[完本]閑話一滴』より》
一滴の水
寛政の頃に、私の故郷若狭大飯町の半島の孤村から、岡山曹源寺へ旅立った少年が、修行をつんで儀山善来〈ぎざんぜんらい〉という大和尚になり、廃仏思想の吹き荒れた幕末に、臨済禅の道を実践しつづけ、数多くの名僧を育て、年老いても故郷へ帰らず、岡山で眠ったのは明治10年のことだった。
世に「曹源一滴水」という語が残っているが、じつは、これも、儀山和尚の有名な逸話から出ている。晩年、和尚は、大ぜいの雲水と道場でくらしていたが、ある夕、風呂に入ろうとしたら、湯が熱すぎた。ひとりの雲水が水桶をかついできて、すぐさま和尚の前で湯に水をうめたが、そののこり水を庭へ捨てた。見ていた和尚が、大声でどなった。
「もったいないことをするでない。一滴の水にも命がある。草や木が日照りで泣いているのがわからぬのか。根へかけてやればよろこぶものを」
と。雲水は、この大喝に己れをふりかえり、人生の一大事を悟った。この日から名を滴水とあらため、修行につとめ、和尚の法を継ぐ一の弟子になった。のちの天竜寺管長由利滴水がこの人だ。
由利滴水が、幕末動乱の際、天竜寺を攻めてきた暴徒とわたりあう話も有名であるが、明治に入って、大教院に出仕し、臨済宗の管長となったことも、この派の小僧なら、誰でも師匠から習うことで、私も、滴水和尚がそのようなえらい人となれた心根には、修行時代の師匠の「一滴の水」があったればこそだと説かれた。
最近、私は、故郷大飯町の、大島という孤村を訪れ、儀山和尚の生誕地を探ってみた。
その家は残っていて、後家〈うしろけ〉といい、後裔の方がおられたが、和尚の幼名もわかっていないことがわかった。村は、まったくの孤島といえて、昔は井戸を掘っても、おいしい水の出ない貧寒な地だったそうだ。耕地も少なく、人々は舟をこいで魚をとり、山畑に水をためて稲をつくり、自然の脅威と闘って生きたが、日照りつづきの夏は夕立雨を溜めて呑み水とした。古い話を古老からきいた時、「曹源一滴水」の語の奥の方に、寛政の頃の貧しい家出少年の、原光景がかさなって、心を打たれたのである。
何のことはない、一滴の水の思想は、干ばつの不作に泣いた父母の嘆きがこもっていたのだ。人はひもじかったり、貧しかったり、苦しかったりして、心に一大事を養うものらしい。そうでなければ、大学を出ているはずもない、文盲少年が、百年経ってもゆるぎない、こんなすばらしい言葉をのこせるはずがない。ハングリーであったということが、少年に故郷を捨てさせ、岡山へ歩ませ、そこに師匠を見つけさせ、修行の道にいそしませたのである。昔は、漁師や農民の子は、かんたんに村を出ることは出来ず、出家することも、村ばなれの罪になる時代であった。そういう時代に、文盲の子が、世の中へ雄飛しようと考えれば、方法は家出しかないわけだが、さて、その家出してからの放浪生活に、人生の大事を培う気力はなみたいていの努力ではなかったろう。
そんなことを考えながら、海岸を歩いていたら、和尚の生誕の村が、原子力発電所のドームを抱いていることがわかった。儀山和尚が亡くなってからもう100年をこえたが、一滴の水も惜しんでくらさねば生きられなかった辺境は、人類の火とよばれるエネルギーの火壼の在所に変わっている。あらたな感慨を抱かざるを得なかったのである。
私たちはいま、都会で、ボタンを押して湯をわかし、ボタンを押して風呂に入り、蛇口をひねって、水道の水をふんだんに使い、足さえつかわずに高層マンションの居室へ帰る日常を、当然のことのように思っているが、じつは、このぜいたくな生活がつづけられるのも、ゲンパツと人のよぶ原子力発電所から、1日の約3分の1の電力をおくってもらっているからで、そんなことを、じっくり考え込みもしないで、めまぐるしい競争社会を、とにかく今日よりよくなろうと、明日に向かって、必死に喘ぎ生きている。
その日常には、寛政の頃に、孤村を出た貧しい少年の心に掘りこまれていた、一滴の湧水願望とは程遠い、何もかも便利主義の、使い捨ての発想がありはしないか。こんなことをいえば、若い読者は、つまらぬことをいうヤツだと笑うだろうか。
世はあげてこころの時代だといわれる。こころとは何か。己れが心田にひそむ真実をボーリングする営為である。まがいのないところを打ちだして、誰はばかることのない生命の謳歌だ。和尚の生涯がそれを物語る。
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<書籍紹介>
水上勉 著
本体価格720円
「一滴の水にも命がある」――現代社会が見失っている、日本人の自然・風土を慈しむ心に触れる随想集。未文庫化の続編と合本した完全版。