真田幸綱はなぜ、調略面で活躍できたのか?―最新研究で謎を解く!
2015年09月25日 公開 2024年12月16日 更新
《PHP文庫『大いなる謎 真田一族』より》
幸綱が張り巡らせた調略のための情報網
真田幸綱が抜群の功績をあげることができたのは、彼の調略が実にうまくいったからです。ではなぜ、それが可能だったのでしょうか。もちろん、幸綱自身の才覚が秀でていたことは間違いないでしょう。しかしそれだけではなく、彼が培っていた人脈によるところが大きいのではないでしょうか。では、その人脈はいかにして形成されたかといえば、やはり滋野一族という括りで考えるのが一番でしょう。
真田氏は滋野一族の一員であり、滋野一族は先にも紹介したように、信濃、上野の両国に広く分布し繁栄していました。幸綱はこのコネクションを利用し、調略の手を伸ばしていったとみられます。この同族関係を利用して調略した事例は、息子・昌幸にも引き継がれています。
たとえば天正10年(1582)6月。本能寺の変直後、越後の上杉景勝は川中島地方を制圧し、真田昌幸を従属させました。さらに上杉氏は別働隊を編制し、越後に匿っていた小笠原洞雪斎玄也(貞種)を押し立てて、深志城攻略を実施させます。この時、上杉氏は川中島から深志へ抜ける北国街道沿いの要衝青柳・麻績〈おみ〉城を支配する青柳頼長や会田海野氏への調略を行いました。彼らが味方にならなければ、深志への侵攻など到底不可能だったからです。この重要な役目を担ったのが真田昌幸であり、会田海野氏らは同じ滋野一族なので説得が容易だったと伝えられます(『箕輪記』『信府統記』)。
話を幸綱に戻しましょう。各所に味方を埋伏させていた幸綱は、敵方の調略を察知することにもしばしば成功していました。代表的な事例は、上野国の安中城主・安中越前入道(重繁)の謀叛未遂事件です。これは永禄7年(1564)11月に起きたもので、結局は不発に終わるのですが、幸綱の諜報網によって発覚しています。
当時、幸綱は信玄の命令により、倉賀野城に在城していました。すると、安中城主・安中越前入道が上杉謙信の調略に応じ、碓氷峠の関門である松井田城を乗っ取ろうとしているとの情報を掴みました。これを知った幸綱はただちに信玄に報告し、驚いた信玄は松井田城に在城していた重臣・小山田虎満に宛てて永禄7年11月8日付で密書を送っています。残念なことに、一部が欠損していて、その全貌は把握できませんが、書状の内容を紹介しましょう。
当時、甲府の信玄のもとに小山田虎満の息子・藤四郎(後の小山田備中守昌成)がいて、信玄は彼に父・虎満宛の密書を託し届けさせました。その手紙で信玄は、「真田幸綱から届いた密書により、上野衆・安中越前入道が秘かに上杉謙信に内通しており、松井田城の乗っ取りを企んでいるとのことである。だが確実な証拠を掴んでいるわけではないので、決して表情には出さず内心の用心が大事である。詳しくは藤四郎に言い含めておいたので、よく聞くように」と述べています。
情報を掴んでいた武田方の厳重な警戒のため、安中越前入道は謀叛を諦めたようであり、彼はその後も武田氏に忠節を尽くしています。このように幸綱は、上野に在陣しながら上杉方の動向と情報を収集しており、その過程で掴んだ情報は逐一信玄に報告され、不測の事態を防ぐことに繋がっていたわけです。幸綱が張り巡らせた調略のための情報網は、敵方から伸びる謀略を防ぐ役割をも担っていたといっても過言ではないのです。
<著者紹介>
平山優(ひらやま・ゆう)
昭和39年(1964)、東京都新宿区生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編纂室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹を経て、現在、山梨県立中央高等学校教諭。日本中世史に関する精力的な研究活動を行い、2016年放送の大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当。
著書に、『武田信玄』『長篠合纖と武田勝頼』(以上、吉川弘文館)、『戦国大名領国の基礎構造』(校倉書房)、『天正壬午の乱[増補改訂版]』(戎光祥出版)、『山本勘助』(講談社)、『真田三代』(PHP研究所)など多数ある。