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東北の現場は「全国との絆」で復活する

夏目幸明(ジャーナリスト)

2011年06月27日 公開 2023年10月04日 更新

"東北を襲った震災の悲劇

 よく、経済は血流にたとえられる。お金とモノが動脈・静脈を駆け巡り、すべての細胞がそれぞれの役割を果たす。3月11日、東北で、すべてがストップした。

 仙台土産「萩の月」をつくる!)菓匠三全(本社:宮城県柴田郡大河原町)の田中正人専務が振り返る。

「私は百貨店のエレベーターに乗っていました。降下する箱が揺れて壁にガンガン当たり、扉が開くとお客さまがみなさん壁に手をついて耐えておられました」

 知る人ぞ知る日本酒のシャンパン「すず音」などをつくる酒蔵・(株)一ノ蔵(本社:宮城県大崎市)の松本善文社長は、揺れが収まったあと、惨状に声を失った。

「倉庫が割れた瓶の山になってしまいました。お酒が床一面に流れ、工場では発酵タンクが傾いていました」

 岩手の銘菓「かもめの玉子」を売るさいとう製菓(株)(本社:岩手県大船渡市)の齊藤賢治専務は、ネットにアップした動画で有名になった。まだ揺れているのに、専務が社員の安全を確保するため工場へ急ぐ。その途中、川の魚が異常な勢いで跳ね、暴れている。動画に、専務の祈るような叫びが記録されている。

「逃げろ! 津波が来るぞ!」

 押し寄せた津波は、倉庫を、工場を呑み込んだ。金属を加工して複雑な形状の金型をつくり自動車工場などに卸す岩機ダイカスト工業(株)(本社:宮城県亘理郡山元町)の横山廣人常務は、高台にある工場で息を呑んだ。

「すぐ目の前の森まで津波が押し寄せ、『ほんとうに来たなぁ』と茫然としました。平野部にあった弊社のマグネシウムダイカストの工場では、10tを超える製造器が工場の外まで運ばれ、横倒しになったんですよ」

「(被害は)テレビで観るものと現実とでは、比べものにならない」と話すのは、岩手県釜石市の料亭、中村家の社長・中村勝泰氏だ。社長と料理長が考案した「三陸海宝漬」が大ヒットし、“新しい釜石名物”として東京などから引く手あまた、ちょうど在庫を多く抱えていたという。

「その倉庫が、津波に呑み込まれてしまった。被害額は5億円、年商15億のうちの5億円ですよ。しかし、お金ではないんです。報道では亡くなった方を映していませんでしたが、町には死者と、嘆き悲しまれている方が、もういっぱい、いっぱい……」

 悲劇も起きた。菓匠三全の田中氏が、悲しみ以上のものを感じるとこうなるのか、淡々と話す。

「犠牲者が1名出ました。相馬市の社員が休暇で仙台に来ていて、地震の30分後も、安否確認のメールに『大丈夫です』『元気です』などと返事をくれていたんです。ところがその日、家族のもとへ帰ってこない。3日後、警察から連絡があり、亘理町で遺体が発見されたというのです。戻る途中、津波に呑み込まれてしまったんですね。海岸の形の関係で、津波が遅れて来たんです」

「自社」のみの対策では万全ではない

 各企業とも地震対策はとっていた。たとえば、一ノ蔵。松本社長が話す。

「工場を建設するとき、ゼネコンの方と話し、大型の機械はすべてアンカー(杭)で固定してあったんです」

 人的被害はなかった。もし機械が動き、人を挟んでいたら……想像だに恐ろしい。

 パソコンや携帯電話などに広く使われる「コンデンサ」やノイズ対策部品などをつくるNECトーキン(株)(本店:仙台市太白区/本社:東京都千代田区)も対策は万全だった。岡部政和社長が語る。

「安全な避難場所まで遠い職場には、シェルターが用意されており、みんな、そこに逃げ込んだので、人的被害はありませんでした。通信も、東京本社と宮城の工場のあいだに一回線、衛星電話が引いてあったんです。これが被災状況の把握などに役立ちました」

 だが、地震から数時間程度で、電源が落ちた。すると、ここから二次的な被害がもたらされた。たとえば、岩機ダイカスト。停電により、電気炉のなかで溶けていた金属が固まってしまった。

「これが大きな被害でした。固まったあと、炉のなかの金属を取り出すとき、耐火煉瓦も壊さなければならず、復旧の妨げになりました」

 燃料もなくなった。NECトーキンで復旧の陣頭指揮を執った仙台事業所長・岡山成氏が話す。

「社員が復旧のため出社しようとしても、自家用車がすぐガソリン切れになってしまったんです。そこで、バス会社に依頼し、通勤用に7台のバスをチャーターさせてもらいました。チャーターバスには、公共交通機関が回復するまでの3週間、ほんとうにお世話になりました」

 そう、各工場とも「揺れ」への対策は採っていた。その後の連絡網、災害対策マニュアルなど、企業がそれぞれ対策できることは整備されていた。だが、工場の外で起き、地域全体に降りかかる厄災――電気、通信の途絶、交通インフラの壊滅、燃料の枯渇までには十分とはいえなかった。

 以下、匿名にしたい。ある社長が話す。

「国や自治体がどこかで燃料の備蓄をしていたとしても、それが被災地に届かなければ意味はないのです」

 別の取締役が話す。

「(日本全国で7日分の燃料が備蓄されているという報道もあったが)もっとさまざまな場所に集積するなどの対策が必要です。どこで地震が起き、どこでインフラが途切れるかわからないじゃないですか」

 彼の話は続く。

「ほしいときにほしいものがないんです。必要なものは日々、刻々と変わっていきました。最初は食料、水。次に燃料、電力。なのに、ほしいときになく、いま、各自治体では必要とされない救援物資が余っているとも聞きます」

 対策万全だった自社。しかし、企業の枠を超えた対策には課題が残ったのだ。ただし、事態はここから思わぬ方向に動き出した。

隣人の健康、幸福なくして幸せはない

 一ノ蔵の松本社長が話す。

「私は、御礼をしたいのです」

 どういうわけか?

「蔵が壊れ、復旧作業を行なうとき、工務店などの方が突貫工事で直してくださったんです。われわれのファンの皆さまからも、復興を願う、と数々の励ましをいただきました。その思いがどれだけ私たちを明るくしてくださったか」

 半導体製品を開発・販売する富士通セミコンダクター(株)(本社:神奈川県横浜市)の広報担当も、「誌面を借りて御礼申しあげたい」という。

「弊社の岩手工場に、日ごろから信頼関係を築いてきた設備メーカーの方が駆けつけてくれ、水も出ないなか、風呂にも入らず髭を伸ばしたまま、一緒に復旧にご協力くださいました。『顧客企業への製品出荷を遅延させてはいけない』という弊社の思いを、共有していただけたのです」

 被災を免れた同社の三重工場では、東北の工場の復旧支援のため、被災地で失われた物資の調達に努めた。とくに重油に関しては、近隣の協力会社、さらに社員の家族が勤務する会社にも依頼、貴重な一万Lを確保した。

「これら重油や他の物資を東北に運搬するに当たり、ある大手物流会社の四日市支店や地元の運送会社数社から輸送の申し出があり、積極的にご協力いただけたのも大きかったです。東北の被災工場の社員は、『800kmも離れた三重からのトラックの到着が、なによりも励みになった。感謝でいっぱいだ』と語っています」

 話は終わらない。岩機ダイカストには、顧客メーカーの方たちが続々到着、復旧を手伝ってくれた。

 NECトーキンでは、10年以上前につき合いがあった部品メーカーに供給を依頼した。依頼先は、至急の要望にも快く応じてくれたという。

 同じころ、菓匠三全は三越伊勢丹をはじめとする小売店と折衝を始めていた。三越伊勢丹は地震のあと、すぐに震災対策室を設置。必要な支援を考え、売り場の提案をしてくれた。田中氏が話す。

「東京で催事を行ない『萩の月』を販売したいとお話ししたところ、即座に『こちらでいかがですか』と快く受けてくださったのです」

 菓匠三全の主要な販売拠点である仙台駅、仙台空港はともに壊滅的な被害を受けていた。仙台のイベントもことごとくキャンセル、観光需要もない。菓匠三全側はいままで「あくまで仙台にいらしていただいた方のおみやげ」と、東京での販売を見送っていた。せっかくの仙台みやげが「東京でも買える」では申しわけない、と考えていたのだ。

「期間限定とはいえ、東京での販売は社内で一時、議論になりました。しかし、1年後に1万円の売上げがあるのも嬉しいのですが、いまの1000円の売上げが地域にどれだけ大きいことか、という意見があったのです。いまの1000円を売上げとして手にした会社は、それを社員の給料に使い、また社員は何かの消費に回す。こうしてお金が何回転もしていけば、地域にとっていまの1000円は、何万円もの価値があるはずだ、と。最後は社長のひと言で決まりました。『伝家の宝刀を抜かせていただくのはいまだ』というのです」

 そう、経済は血流にたとえられる。同時に、こうもいえまいか。社会は人体に、会社は臓器に、個人は細胞にたとえられるかもしれない。そして――。

 人体の健康が損なわれれば、臓器も、細胞も、人体とともに滅びるしかない。

 3月11日、私たちの社会は大きな傷を負った。同時に、傷の浅い臓器が、細胞が、必死でカバーを始めたのだ。私たちは、心の奥底で知っていたのかもしれない。隣人の健康、幸福なくして、私たちの幸せはないことを。その思いが、工場や企業をも救っていく。

 興味深いのは、同じ思いが被災した企業自体にもあることだ。さいとう製菓の齊藤俊明社長は、津波が去ったその日、避難所を回っていた。

「弊社では1日約25万個、『かもめの玉子』を生産しています。これを、家をなくし、寒さに震えている方たちになんとか届けたかったのです」

 燃料がなくなるまで避難所へ配ろう! 彼は瓦礫の山を越え、ホワイトチョコのコーティングのなかに、カステラ生地と黄身あんと、熱い思いが入った「かもめの玉子」を配って回った。従業員も齊藤氏の家族も必死だった。

「その後、弊社に何百通という温かいメッセージが寄せられまして……毎日、みんなで涙を流しながら読み、おかげで復旧に向かっていけたんです」

 3日間、1300人が孤立した仙台空港で貴重な食料になった「萩の月」の菓匠三全も同じだった。

「燃料不足で物資が滞った期間、避難所に計231,000個をお届けしました。自治体の方が配分に手を取られないよう、被災者の方が1,000人いらっしゃる避難所には1,000個、3,200人いらっしゃるなら3,200個、と分けてお届けしました。一方、工場ではこうした仕事があると、従業員の顔が次第に明るくなってきましてね……」

 ただでさえ大きな損害を受けた一ノ蔵は、予定されていた春祭り・蔵開放を中止した分、その予算を義援金としたという。NECトーキンは、自治体にノートパソコンを送った。同社・岡部社長が話す。

「結局、普段のおつき合いが大事だと思うんですよ」

 血流は、何もお金の流れだけではない。

 誰かが不機嫌になる。取引先に乱暴な言葉を使う、取引先の担当は社内で後輩に厳しく当たる、そんな連鎖を起こしてはならない。もちろん、ビジネスは厳しい、しかしお互いの立場を主張し合ったら、その後、ちゃんと手をつなぐ。そんな日常の厚意の積み重ねが、非常用電源や燃料と同じ、大きなバックアップになるのだ。

“復旧”を上回る“復興”をめざして……

 最後、各社に今後のことを聞いた。“復旧”でなく、震災前を上回る“復興”をめざす企業はないか。だが総じて、現在は“復旧”で精一杯、それを超えるものはまだ計画中、という企業が多かった。傷跡は想像以上に深いのだ。岩機ダイカストの横山氏が話す。

「(津波で流された工場でつくっていた)マグネシウムダイカストからは、撤退の予定です。チャンスといえば、われわれには時間がある、ということでしょうか」

 工場は動き出した。しかし、傷は奥深くに達していた。

「弊社は(自動車などの)メーカーさんに部品を供給できたのですが、供給されなかった部品もあるようで、完成品がつくれず、弊社の部品が余っているらしいのです。だから来月以降、われわれには時間があるんですよ。そこで各課の人間に今後に向けての改善案を出してもらうことにしています。この機会に、将来に向け底力をつけるんです」

「三陸海宝漬」の中村家も、生産の再開はしたものの、傷は奥深くまで達している。「三陸海宝漬」はイクラ、アワビ、メカブなどで海の恵みの豊かさを楽しむ一品。地元の海産物のなかでも質のよいものを、漁師さんから直接買う「浜買い」で仕入れていた。しかし――。

「海は瓦礫で埋もれ、たとえば三陸のワカメなどはいつ手に入るかわかりません。ただ、地元のブランドを絶やしてはいけない、それがいつか浜の復興にもつながると思い、津波に流されなかった食材と、一部、北海道から仕入れた食材を使って生産を再開した、そんな状況なんですよ」

 ならば、そんな彼らに対し、今後、われわれができることはあるのだろうか。

 菓匠三全の田中氏が「お願いができるなら」と話す。

「過度に自粛をなさらないでいただきたいのです」

 仙台では年に300回ものコンサートが開催されていた。会議、コンベンションなど、さまざまな催しもあった。

「これが中止されると、地元の経済は冷え込んでしまう」

「三陸海宝漬」の中村氏も、同じ趣旨のことをいう。生産の再開をメディアで告知すると、生産した1,000個がたった2時間で完売。その瞬間、心強さが身に染みたが……。

「お願いできるものであれば、この流れが息の長いものであってほしい。弊社だけでなく、浜の漁師さんたちなど、地域全体が立ち直るには、まだまだ時間がかかります」

 ただ、彼の話はここで終わらない。電話の向こうで力強くいった。

「そのためにも、われわれは本物でお応えしますよ。私、じつはいま、北海道にいるんです。足りない材料は北海道から仕入れますが、それも私自身が厳選したものを使わなければ、と現地まで来たんですよ」

 被災地の名物を2時間で買い切った1,000人の顧客、彼らの思いに応えるべく、山積みの仕事の合間を縫い、材料を厳選する社長。

「絆」――。

 平時であれば綺麗事のにおいがする言葉だが、いま、日本はたしかに「絆」で結ばれているのではないか。そして、この流れを一過性で終わらせないことこそが「今後、われわれにできること」なのではないのか?

いまこそ、部品メーカーはスクラムを組め

 NECトーキンの岡部社長はまた別の提言をする。いまこそ、部品メーカーがスクラムを組まなければならない、というのだ。

「日本がグローバル市場で失った信用を取り戻すには長い時間がかかると思います。これまで“日本企業に任せておけば大丈夫”だったものが、今回“そうではない”となってしまった。海外のメーカーは、部品の生産をさまざまな国のさまざまな企業に分散させる可能性が高いんです。

 だからこそ今後、部品メーカーは部品メーカー同士でスクラムを組まなければならない。この会社が部品を供給できなくなったらこの会社が代わりに出せる。そんな態勢を採り、再び“日本企業に任せておけば大丈夫”という状況を各業界全体でつくり上げていくべきだと思います」

 もちろん困難はあるだろう。各企業ともノウハウの流出は避けたいはずだ。しかし、いまこそが「絆」をより深める好機なのだ。なんといっても、いまは日本に暮らす多くの人間が“この大ケガで人体が滅びれば、臓器も、細胞も枯れていくしかない”と意識しているのだから――。

 そして、これまでの話を総合すると、現場の工場は、間違いなくその方向に向かってもいる。

 最後に、こんな話を聞いてほしい。金属、セラミックスなどの超精密鏡面加工に特化してきた(株)ティ・ディ・シー(本社:宮城県宮城郡利府町)の赤羽亮哉社長が話す。

「地震のあと、同業他社から連絡があったんですよ」

 電話口から聞こえた。

「生産に必要なもので足りていないものはありますか? というんです。そこで、ある資材が足りないと話したら、数日後、トラックいっぱい届いたんですよ」

 普段はしのぎを削り合っている競争相手だった。

 3月11日、われわれの日本は大ケガを負った。

 しかし、それは「病」ではない。

 希望がなく、人がうつむき、いがみ合い……そんな世の中が来たら、それは「病」といっていいだろう。だが、3月11日の傷は、メチャクチャに痛く、つらいものの、いつかは退院できる「大けが」なのだ。

 このメンタリティーを失わなければ、日本は復興する。むしろバブル崩壊以降の閉塞感を打破するきっかけにすることこそが、われわれに求められていることではないか。

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