わらべ歌に隠された古代史の闇
伝統的な子どもの遊びの中には、素直な心を持っていた太古の記憶が残されているらしい。子どもは、知らず知らずのうちに、古代から連綿と受け継がれてきた原始的な祭りの様式を、いまに伝えているというのである。
たとえば、子どもは無意識に鬼ごっこというが、鬼とは、妖怪、死者の霊魂、亡霊などの意味を持っている。子どもは好んで霊魂に扮し、妖怪に追いかけられて笑い転げていたことになる。また、鬼は太古「モノ」と読み、「神」と同義語であっ
たから、鬼ごっことは、神の真似をすることが原義ととることもできる。
ちなみに、子どもが鬼ごっこや神の遊びをするものと考えられているひとつの理由には、古来、子どもが神や鬼と同一視されていたことと無縁ではなかったようだ。昔話の中で子ども(童子・童女)が主人公で登場し、大人でも手に負えぬ鬼を退治してしまうのは、子どもが鬼よりも強い鬼、あるいは鬼の邪気に打ち勝てる聖なる存在とみなされていたからである。
子どもには不思議な力が秘められていると考えられていて、神に近い存在とみなされていたから、多くの重要な神事にも、童子・童女は主役級の大役を任されてきたのである。その、子どもが行ってきた神事・祭りが、遊びとなって今日に伝わった疑いが強いのである。
とすれば、伝統的な「遊び」も、軽視することはできない。
たとえば……つい近年まで女子の遊びの定番であったカゴメ歌にも、謎がないわけではない。
カゴメ歌といえば、鬼が目を塞いでしゃがみ、そのぐるりを他の子どもたちが取り囲み、歌を謡い、立ち止まったところで、後ろ側に立った人の名を当てるというゲームとして知られる。
目に見えぬ背後の人物を言い当てるということも何やらオカルトじみているが、この、中央でかがみ込んだ人物を取り囲むのは、霊媒者に神おろしをする形とそっくりであるともいう。
たしかに、カゴメ歌は、不可解な歌詞である。
カゴメカゴメ(籠目・籠目)、籠の中の鳥は、いついつ出やる。夜明の晩に、鶴と亀がつっぺった(すべった)。後ろの正面だあれ。
籠の中にいる鳥は、はたして閉じこめられているとでもいうのであろうか。そして、夜明の晩という矛盾、何の脈絡もなく鶴と亀が出てくるのはなぜか。そして、なぜ後ろの正面を推理しなければならないのか……。知らず知らずに口ずさんでいた歌が、不気味な謎を持っていたことに気づかされるのである。
カゴメ歌を記した最古の文献は、江戸時代の安永8年(1779)のもので、そこには、「むかしむかしよりいいつたえし かごめかごめのものがたり」とある。
このことから、カゴメ歌が少なくとも江戸中期には遡ること、しかもこのとき、すでに「むかしむかしから伝わる」「物語」と認識されていたことがわかる。
カゴメ歌を継承してきた者が童女であり、童女が巫女としてきわめて宗教的意味を持っていたことは無視できない。というのも、古代より語り継がれた星の数ほどの民話・伝承の中でも女性の悲劇にまつわる代物には、あるひとつのパターンがみられる。その根が想像以上に古く、しかも、カゴメ歌にも、この「様式」が当てはまってくるからである。
それは、たとえば鶴の恩返しであり、天の羽衣伝承、『竹取物語』(かぐや姫)、奈良県の中将姫伝説、北陸地方の奴奈川姫伝説である。
これらの話の中のことごとくが、シャーマン(巫女)的要素を含んでいること、最後に悲劇的な幕切れが用意され、天に飛んで帰る(死、自殺を含む)こと、さらには「水(沼・湖・海)」「鳥(白鳥・羽衣を含む)」「カゴ(籠・籠目・亀・亀甲、籠の材となる竹)」「機織(天の羽衣・神衣を織ること、すなわち鳥のイメージとつながっている)」といった、古代日本の民俗信仰の痕跡が濃厚にみられるのである。
これらの説話が、新しいもので中世、古いものでは神代(つまりはヤマト建国直前の混乱期の話であろう)まで遡り、予想以上に古い題材であることも興味深いが、問題はカゴメ歌の中に、この「女性(巫女)の悲劇の説話」と共通のパターンが見出せることなのである。
しかも、この遊びの形式が、一種の「神おろし」であり、「童女(巫女)」たちの手で継承されてきたところに、深い秘密を感じずにはいられないのである。
カゴメ歌には、千数百年にもわたる女人の恨みつらみ、執念が込められている……これが、カゴメ歌を追ってみて行き着いた答えであり、「カゴメ歌的なもの」が語り継がれてきたのは、この女人の悲劇が、歴史の秘密を隠し持っていたからであろう。