「不偶」を生かして道をひらいた松下幸之助
松下幸之助は9歳のとき、家の経済的事情から大阪の火鉢店に奉公に出るため、尋常小学校の4年生で中途退学する。当時の尋常小学校は4年制のため卒業まであと一息だった。二つめの奉公先である自転車店の向かいに住む同じ年ごろの“ぼっちゃん”の金ボタンの制服姿を目の当たりにして、学校に通いたくても通えない己の境遇を認識する。
「そのうらやましさは、言うに言えないほどだったように思います。そのたびに、わたしは、われとわが身をしかり、慰めて、“身分が違うのだ。望んでもかなわないことだ。あきらめなさい”と、心のなかで言い、手を切るような冷たい水でぞうきんをしぼったものでした」(『若さに贈る』)
少年松下は、冬の早朝の水の冷たさで手を真っ赤にはらしながら、商売の修業を続ける以外に選択肢がないことを悟ったのである。
松下の不遇は貧しくて学校に通えないことだけではなかった。家族という精神的な支えも失っていく。10代のころまでに兄姉と両親が相次いでこの世を去り、ついに26歳のとき10人いた家族は末子の松下一人だけとなった。松下自身も、若くして結核の初期の病を患うなど病弱で、死の不安に直面する。そのうえ、船から海に落ちたり、あわや電車にひかれそうになったりと、一歩間違えれば命を失うような事故もいくつか経験した。
しかし松下は後年、そんな不遇な生い立ちにもかかわらず、自分の成功は「運が強かったからだ」と述べる。努力や苦労の積み重ねではないのだ。自分に運があると思ったきっかけは上述の事故である。何度か大きな事故に遭っても「死なない」自分に気づいたことだった。お金持ちで高学歴で健康であっても、一瞬の事故で命を失う人もいる。けれども自分は死なない。なんて強運の持ち主なんだと。自分には、人知を超えた大きな力が働いているのだと。
以来、苦難に直面しても、心が動揺しなくなった。信念を持って力強く前に進めるようになった。すると、自分の歩むべき道が次第にひらけてきたという。そして、不遇と思いこんでいた生い立ちも、じつは前向きにとらえるべき運命だったのだと理解したのである。
「家が貧しかったために、丁稚奉公に出されたけれど、そのおかげで幼いうちから商人としてのしつけを受け、世の辛酸を多少なりとも味わうことができた。生来体が弱かったがために、人に頼んで仕事をしてもらうことを覚えた。学歴がなかったので、常に人に教えを請うことができた。あるいは何度かの九死に一生を得た経験を通じて、自分の強運を信じることができた。こういうように、自分に与えられた運命をいわば積極的に受けとめ、それを知らず識らず前向きに生かしてきたからこそ、そこに一つの道がひらけてきたとも考えられます」(『人生心得帖』)
もし金ボタンの制服を着て通学していたら、商売も身につかなかったし、人に教えを請う謙虚さも持てなかった。しかし、身分の違いから学校に通うという夢はあきらめ、商売人になるという運命を受けとめてきたからこそ、将来の成功へとつながったのである。
「私たちの一生は、人それぞれに異なった境遇の上に成り立っています。そしてその人生には、予知できないさまざまなことが起こってくる。それが私たちにとって好ましいことばかりでないのは言うまでもありません。そういう人生を送るにあたって大事なのは、やはり一方で自分が置かれた境遇なり起こってくる事態を一つの運命として冷静に受けとめつつ、他方でその運命を生かすべく人事を尽くすこと」(『PHP』昭和56年11月号)
今の自分の境遇に不本意な人は多いだろう。もっと華々しい人生とか、あるいは平穏な生活を送りたいと思うかもしれない。しかし松下のように、まずは置かれている境遇を自分の運命として受けとめてみてはどうだろうか。そこからまた違った自分の姿や将来像が見えてくるはずだ。
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