原発の未来に可能性を残せ
2011年10月10日 公開 2023年10月04日 更新
反対論は感情的にはわかるけれど
今回の話は別のところにも書いた話ではある。が、ネタの使い回しは避けたい一方で、違う読者層にも考えてほしい話だ。それはいま流行の、原発談義のことではある。とくに、今後の原子力のあり方をどうするのか、という話。これについては本誌の各種論説を含め、いろんな人がいろんなことをいっている。でもそのほとんどは、中身を考えないお題目だけの原発反対か、あるいはたんなるなしくずしの現状維持的な逃げ口上ばかりだ。
むろん東電原発事故は、多くの問題点を明るみに出した。いちばん基本的なところで、設計耐用年数の過ぎたポンコツを「まだ使えるから」で延命させたのは愚かだった。そしてそんな基本的な工学原則も徹底できない、いまの愚かな関係者たち(いわゆる原子力村)も、所轄官庁を代えるくらいでは済まない根本的なてこ入れは必須だろう。難しいけど。
が、それでは原発反対といえば済むのか? ぼくは、最近になって原発反対を主張しはじめた人が何を求めているのか、よくわからないのだ。というのも、そうした議論の多くは、ただのポジション開陳以上のものではないからだ。
だんだん理解されてきたと思うけれど、いまある原発を明日からすぐなくせるわけじゃない。炉も、使用済み燃料も、冷やして保管処分に何十年もかかる。つまりそのあいだ、ずっと誰かがそれを管理しなきゃいけない。それをいまの技術で続けていいの? いま動いている原発だって、少しでも安全なものに更新する手立てを考えるべきじゃないの?
核燃料や廃棄物も、原発ヤメといえば消えてなくなるわけじゃない。いまそのまともな処理方法がないなら、その処理方法もさらに研究が必要だ。いや完璧な処理方法は絶対ありえないとしたり顔でいう人もいる。でも、いまより多少なりともマシなやり方はあるはずだ。それを検討することは、原発反対論者の利益にも叶うことじゃないの?
となると、今後その研究に多少は知恵のある人材が回る必要がある。でも絶対に先がない産業に、人が行くと思う? こう書くと、そしてそれを考えるためには、やはり産業として未来がある面白い分野でないと。原子炉の設計もすでにかなり進歩した。外部電源が切れても、冷却水がなくなっても何も起きず、自然に止まる設計の原子力エネルギーもあって、ビル・ゲイツもすでに目をつけている。そういう面白い可能性を少しは追えないと、尻ぬぐいだけの産業にはなかなか人がこないのは、あの業界とかこの業界とかみても明らかだろう。原発反対論は感情的にはわかるけれど、それを現実的に進めるには、むしろ原発の未来の可能性を残さないと、原発引退すらまともに進められなくなるはずだ。
原発か経済成長か、というインチキ
ましてぼくにさっぱり理解できないのは、原発か経済成長か、といったインチキな二者択一を持ち出す連中だ。原発事故はいまの文明のあり方の破綻を示すとかなんとか。べつに原発なくても経済成長はできるし、原発はいまの文明の不可分な一部じゃない。たまたまエネルギー源として有利そうな面もあったから使われたというだけの話だ。
もちろん経済成長反対と口走る人の多くは、経済成長というのがたんなるバブリーなぜいたくの話だと思ってる。でも、本誌でぼくの途上国援助をめぐる話を読まれた読者諸賢は、もう少し高い認識をおもちだと期待したいところ。むろん、経済成長がもたらす歪みはある。でもそれは、人に職と安定を与える。自殺に追い込まれる人を減らし、人びとに医療を与え、学校をよくして、高齢者の福祉を高めるものだ。それは人びとの命を救う。
繰り返すけれど、原発がなくても経済成長はできる。経済成長を否定したり文明の見直しを求めたりする人は、反原発を口実に、まったく無意味に人が死んでもいい、苦しんでもいい、と主張していることになる。ついでにそういう人びとは、自分は経済成長の恩恵を享受し尽くしたアームチェア反成長論者でしかないのは自明のことだ。そんなお大尽の空論の口実として、原発の現状を利用するのは、ぼくは低劣な議論だと思う。
結局、老朽化した原発はきちんとつぶすか、可能なら更新しよう。それをまともな工学原則に基づいてきちんと主張できる体制をつくろう。さらに炉の安全性向上や廃棄物処理の改善を実現するためにも、原子力の研究開発にはお金をつぎ込む必要があるし、その人材確保のためにも原子力産業の未来にある程度は可能性を残す必要がある。
原子力が好きとか嫌いとか、賛成とか反対とかを問わず、いますでに原子炉が存在してしまっていること、それが魔法のように消えてなくなったりしないことを前提にしたら、ぼくはこういうポイントは外せないと思っているんだが。