「ロスジェネ世代」の仕事観…3・11の衝撃
2011年10月11日 公開 2022年12月26日 更新
自分の時間を差し出せば被災者が一歩を踏み出せる
自分なりの「場」を求めるのが日本人なら、欧米人は「カメ」――そう語るのは、前出の社会学者・メアリー氏だ。「カメが背中に家を背負ってあちこち場所を移動するように、アメリカ人は、前の職場で身につけたスキルと専門技能を携えて次の職場へと移っていく」と語る。
その意味で、南三陸町の避難所でボランティア・リーダーを務めた渡辺啓さん(37歳)は、欧米型かもしれない。あの日、関東の会社でかつてない地震を経験した渡辺さんは、すぐに物資をまとめ、親戚の多くが住む南三陸に向かった。
現地で愕然としたのは、「生きるために生きる」被災者の姿だ。物資の仕分け、水汲み、薪割りで、あっという間に1日が終わっていた。
「これじゃあ、仕事を探しにいく余裕もない。いつまで経っても、自立できないじゃないか」
「自立」は、渡辺さんの仕事人生のキーワードといってもいい。自分にできることを提供し、対価をもらう。ホームページの制作などで、大学時代から自分でお金を稼いできた渡辺さんは、仕事を通して、つねに「自分には何ができるのか」と問い続けた。
当時、渡辺さんは建設関連の会社で営業企画を担当していたが、震災を機に会社を退職、南三陸町にある避難所のボランティア・リーダーになった。物資の仕分け、水汲み、薪割りなどの実務を行ないながらも、避難者の要望をとりまとめ、避難所を統括する。
さらには、南三陸町戸倉地区にある避難所の情報収集や問題解決機能も請け負った。業務領域はきわめて広い。
だがボランティアには、報酬が支払われない。幸い、渡辺さんの活動には多少の支援金が出たものの、その額は微々たるものである。
さらにリーダーの仕事は、被災者から感謝される仕事でもないのだという。
「いま、この避難所では何が必要ですか」
そう問うても、東北の人は教えてくれない。
「ほかの避難所もたいへんなんだから、何もいらない」
米粒ひとつ、よこせとはいわない。「気高い」「奥ゆかしい」と渡辺さんは表現するが、運営側としてはたいへんだ。
「では、私が必要だと思うものを、私の責任で調達します。それならいいですね?」
避難者の声なき声に耳を傾け、必要なものを調達する。だから、感謝の声を聞くことはあまりない。「まるで海賊」だと、自身の仕事を表現する渡辺さんだが、日々の充実感は計り知れないという。
「私の時間を差し出すことで、避難者が一歩踏み出すための時間を生むことができる。こんな働き方もあるんだ、と思ったんです」
事実、渡辺さんが避難所に入ることで、出稼ぎに行く人や、瓦礫撤去の仕事に就く人が出てきた。避難所からみえる瓦礫の山は、日を追うごとに小さくなっていく。
「以前の仕事では、一部のお客様の満足度を上げることに精いっぱいでした。でもいまは、間接的であれ、町の復興に携わっているという実感があります。べつにデカイことをしたいわけではありませんが、この場所のほうが、なぜか自分の居場所だと実感できるのです」
7月末、避難者数は16人にまで減った。でも渡辺さんは、まだ現地にいる。
しばらくは、エリア全体のボランティア・ニーズを収集・解決する機能を受け持つのだという。当面は貯金や寄付、団体からの支援金で生活するつもりだが、その働き方にまだ明確な答えはない。
※ロスジェネ世代は、バブル経済からの転換という、日本が初めて立ち向かう局面で犠牲になった世代だ。
しかし彼らは、決して無気力な世代ではない。阪神・淡路大震災のときに真っ先にボランティアに駆けつけたのも、当時、大学生だった彼らだった。
その後のITバブルも、事業と社会貢献の両方を追求するソーシャル・ビジネスも、牽引役の中心はロスジェネ世代だ。社会やビジネスの枠組みが壊れたとき、彼らは率先して"新たな解"を探してきた。
千年に一度といわれる大規模災害になった東日本大震災。家や工場などの物的資産のみならず、古い常識や価値観までも流されてしまった未曾有の震災の陰で、彼らはいま新たな働き方をつかもうとしている。