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ドクターそこのけの健康通・伊達政宗の変わった特技「独眼流推脈」とは?

若林利光(脳神経外科医)

2017年06月07日 公開 2022年06月15日 更新

改易を避けるためには生き抜く必要があった

戦国武将の場合、若ければ若いほど病気でたおれる心配が少ないゆえに、若いというのは有利な条件であった。それはこの時代に生きた多くの武将の中にあって、政宗の有利な点だ。しかしそれは、あまり力に差がないライバル同士が、しのぎを削って領地を奪い合う次元でのことであった。天下の形勢が定まってしまうと、生まれてくるのが遅かったことを悔やむしかない。後は隠忍自重しかないのだ。秀吉と一戦交えるなど夢のまた夢。それどころか、北条氏討伐のタイミングに辛うじて間に合ったために事なきを得たが、秀吉への拝謁がもう少し遅れていれば、政宗自身の首が飛ぶところであった。政宗が膝を屈し、北条氏が降伏した時に、秀吉の天下統一がなったのである。

次に、政宗に天下人へのチャンスらしきものが巡ってきたのは、関ヶ原の戦いの時だ。しかし、この時の天下人への挑戦者は石田三成と徳川家康で、政宗はその他大勢の一人にすぎなかった。その結果、今度は徳川家康に臣従することになった。

武力による戦いが終わって世の中が安定すると、領地拡大は夢となり、今までの戦で得た領地を守るために汲々としなければならない守りの時代となった。大名が亡くなると、領地が没収されたり、国替えにより領地を移し替えられたりすることがあるので、安定した後継の目処がつくまでは、大名たちは死ぬに死ねないような状態になったのだ。

戦国時代でも、相手の大将よりも長生きしないと相手方に自国をとられるおそれがあったが、今度は徳川幕府が相手であった。生きていないと、いつ難癖をつけられ改易されるかわからない。武力ではなく、寿命が何より大事となった。そのため、ほとんどの大名は、健康には細心の注意を払った。藩主の健康の維持が藩の維持に直接つながっていたのだ。細川忠興などは、健康に良いことは貪欲にとり入れ、医学知識を吸収し、薬を自分で調合するほどであった。

健康に気をつかっていたのは、とり潰される方の大名だけではない。とり潰す方の幕府側も同様であった。徳川家康も食事に気をつかうのはもちろん、自分で薬を調合するほど健康には気をつかっていたのだ。こういう状況になると、人の実力は「健康力」ということになった。雄藩と幕府の寿命戦争という様相を呈してきたのである。

奥羽の雄・伊達政宗も健康維持にかけてはひけをとらなかった。伊達家安泰のためには片時も油断せず、できるだけ長生きすることを目指して、健康力を磨いていたのである。運動、食事などに配慮するのは当たり前だった。

たとえば政宗は清潔好きで、行水を欠かさなかった。家臣にも、

「手を清めるというこころがけが大切だ」

と、手洗いを奨励していた。手洗いが不十分なために、ノロウイルスなどによる食中毒が頻発する現代の人間にとっても、「伊達政宗先生」と言えるかもしれない。

このように、健康道といってもいいくらい健康に配慮した生活を送った結果、政宗は変わった特技を身につけるにいたった。

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政宗が実践した「独眼流推脈」とは

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