イラスト:浮雲宇一
人気哲学者が語る「ジブリアニメ」の楽しみ方
“となり”とはなにか?
いや、実はタイトルに何者であるかはっきりと示されているのです。そう、『となりのトトロ』。つまり、トトロとは「となり」なのです。
通常「となり」は、おとなりさんとか、傍そばを意味する言葉ですが、ここでの「となり」にはもっと深い意味があるといっていいでしょう。
それを象徴するシーンが、雨の中バスを待つサツキのとなりで、トトロがただじっと立っている姿です。
お互い存在を意識してはいるのですが、会話を交わすこともない。でも、となり合ったおかげで、かかわりが生じ、何かが起こるのです。ここでサツキが傘を貸してあげたことで、お礼にトトロはサツキとメイを助けてくれます。
考えてみると、となりというのはとても不思議な存在です。それはまったくの他者でもなく、自分とかかわりのある他なる存在なのです。もちろんもともとは赤の他人ですが、となりという場所に居合わせただけで、特別な存在になります。
だからといって、常にその人と交流が生まれるわけではありません。たとえば、電車を待っているときとなりに並んでいた人、映画館でたまたまとなりに座った人、レストランのとなりの席で食事していた人……。こうした人たちとのかかわりは、ほとんど皆無であることが普通です。現代社会では、となりに住んでいる人さえも!
もっというと、となりという存在は、必ずしも人間とは限りません。動物だったり、物だったり、トトロのような森の守り神みたいな存在だったりするのです。
その意味では、となりの人とかとなりというより、「となり性」と呼んだほうがいいかもしれません。いわば「となりであること」です。
となり性は、あたかも気配のごとく私たちの周りに常にあって、可能性を与えてくれているのです。何も起こらないかもしれないけれど、何かが起こるかもしれない。
私たちはそういう感覚に包まれているだけで、心を落ち着けることができます。サツキとメイにとってのトトロがそうであったように。別に何かをしてくれるわけではなくても、存在を感じるだけで安心できる。だからトトロはずんぐりむっくりでなければならなかったのです。どっしりと頼れる存在。
トトロが森の守り神、自然の守り神であるかのように見えるのはそのためです。トトロは自然のメタファー(暗喩)でもあるのです。そうすると、自然そのものが都会や物質文明に対する別の可能性としてのとなりということになりますが、これもまた理にかなってはいます。
なぜなら、『となりのトトロ』の有名な宣伝コピー、「このへんな生きものは、まだ日本にいるのです。たぶん」というのは、都会に対する田舎の可能性を示唆するものだからです。
80年代末、バブル崩壊の直前に、それへの代替案のような形で公開されたこの田舎の物語は、当時の日本にとって、もう一つの可能性でもあったはずです。行き着くところまでいってしまった物質文明の後、いったいどこに向かえばいいのか? 『となりのトトロ』はすでにもう一つの可能性としてのとなりの世界を見せてくれていたのです。
人々がこの映画に共感したのも、きっとある種の安堵を覚えることができたからでしょう。これがダメでも何かが起こる可能性があるに違いないと。
※本記事は、小川仁志著『ジブリアニメで哲学する』(PHP文庫)から一部を抜粋編集したものです。