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松下幸之助のイノベーション――熱海会談

前川洋一郎(大阪商業大学大学院特別教授)

2012年01月12日 公開 2024年12月16日 更新

 『PHPビジネスレビュー 松下幸之助塾』 2012年1・2月号より

 松下電器産業(現パナソニック)の社史、創業者松下幸之助翁の企業家伝の中で、五本の指に入る事績といわれるものに、「熱海会談」がある。今も社内で、業界で、幸之助神話として語り継がれることが多い。

 1964(昭和39)年7月9日から11日にかけて、静岡県熱海市のニューフジヤホテルで開かれた、全国販売会社代理店社長懇談会のことである。当時の日本経済はポスト東京五輪、いわゆる“昭和40年不況”の入口にあった。家電業界は家電製品の普及一巡で頭を打ちかけていた。

 しかし、高度成長の上昇気流の酔いが醒めないメーカーも流通も、押せ押せムード一色で過当競争をくりひろげていた。そのようなとき、幸之助翁に2つの警報ランプが届いた。1つ目は住友銀行の五反田支店からの報告であった。取引先の電器問屋の荷動きがおかしい。在庫過多であるが、メーカーの押込み販売がきつい。問屋と小売店の間も、伝票だけの空売りが多いという情報がもたらされたのである。松下の経理担当重役は早速調べ、幸之助に報告した。幸之助は販売会社代理店の大半が赤字で、自転車操業になっていることに気づき、これは「いけない」と驚いたのである。

 2つ目の警報は1964(昭和39)年6月16日の新潟地震の影響である。新潟営業所から被害の報告を聞き、幸之助はおかしいと思った。あの営業所の規模にしては、破損した倉庫の在庫が多すぎる。そこで幸之助は全国の営業所にみずから電話して、松下電器の営業所倉庫の在庫量を確認した。1カ月販売分の適正在庫を大きく超えているところがほとんどである。流通の中間の販売会社代理店の倉庫は推して知るべしである。これは「危ない」と直感で判断したのだ。

 そこで冒頭の会議が急遽招集されたのである。招集の段取り、会議の準備、当日の進行のすべてに幸之助ならではの心配り気配りがいかんなく発揮され、本社や現場、事務方スタッフは尋常ではなくキリキリ舞いであったと、後日談が伝説となっている。その会議は2日で終了予定のところが結論が出ないというより、全員の心が1つにならず、3日間となった。

 会議では最古参に近い代理店社長が「親の代から取引して幾数十年、ナショナルの旗を振ってきて残ったのは赤字だけだ」と文句を言えば、幸之助は「同じナショナルの旗でも振り方が違う」とやり返した。最後に大半の社長から「松下は儲かっているのにわれわれが儲からないのはどういうことか」と言われ、幸之助は言葉に詰まったのである。2日が過ぎ、3日目となり、幸之助は自責の思いに立って、大きな危機を感じ、革新の必要を確信した。世の中は変化している。今まで通りではいけない。進化しなければならない。跳ばなくてはならないと悟り、次のように締めくくったのである。

 「お互いに言い分もあり理屈もあるが、2日間十分に言い合ったのだから、もうこのような議論はやめよう。よくよく考えれば、松下電器が悪かった、この一語に尽きる。本来、自主自立の経営を進めていただかなければならない皆さんに、松下電器に依存する体質を生ぜしめたのは、われわれのお世話の仕方に当を得ない点があったからであり、心からお詫びしたい。今日松下電器があるのは、本当に皆さんのおかげである。これからは、皆さんに安定した経営をやっていただけるよう、抜本的に考えたい。それをここにお約束する」

 そして、ここからが幸之助翁の幸之助翁らしいところである。熱海会談のあと、病気療養中の営業本部長の代行として本社で陣頭指揮をとり、制度疲労を起こしている販売の仕組み、複雑骨折ばかりしている販売網、そして高度成長に酔っている営業マンに3つの大胆な改革を実施した。

 第一が地域販売制度である。それまでは販売会社、代理店に明確な販売エリアは約束されていなかった。1つの小売店に2つの問屋が卸す、大阪の問屋が四国の小売店に安く融通することもあった。それを1地区1販売会社に線引きしたのである。これは徳川幕府の関ケ原以降の領地替えに似ている。

 第二が事業部直販制度である。それまでは事業部から各地の松下の営業所へ、そこから販売会社に売っていく2段階であった。それを事業部から販売会社へ商品を直接売る。営業所は販売会社からの代金回収とテリトリー内の販売網づくりに徹する、代官のような仕事となった。今日でいうIT化の中抜きを、リアルの世界で強行したのである。

 第三は新月賦販売制度である。当時は自店月賦といって販売店は高額商品についてはお客への掛け売り、月割回収が通常であった。当然、店は資金繰りが苦しく、手形を乱発し、回収不能も出てくる。そこで松下は月賦販売会社を設立し、店がお客に月賦で販売したら、その債権を買い取り、回収業務を代行することにしたのである。これで販売店は回収の手間も資金繰りの苦労もなくなった。これはお客がクレジットカードで商品を買うのと同じであり、松下が銀行の役目をする、思い切った制度である。もちろんのこと幸之助翁はこれら三大改革を実施するに当たり、松下本体の営業経費4パーセントを1パーセントに圧縮、3パーセント分を流通に還元したのであるが、改革は成功し、松下の利益は翌年から大幅増となった。

 この熱海会談のきっかけは幸之助翁の危機感である。まさにドラッカーの「すでに起こった未来を発見」してイノベーションの機会としたのである。幸之助翁は変化と予兆をしっかり見てとっていた。そして図の通り、松下が成長から成熟に移行していることを自覚して、すばやく進化させたのである。

 幸之助翁の三大改革は何も新しいものを使っていない。既存の経営資源「人・もの・金」を新結合したにすぎない。まさに流通、いや経営のイノベーションである。

 老舗の有名な言葉に「のれんにあぐらをかくな」(あみだ池大黒 小林林之助会長)「大黒柱に車をつけろ(いつでも変化できるように予め準備しろ)」(イオン 岡田卓也名誉会長)がある。まさに組織は進化しなければならない。

 

前川洋一郎 (まえかわ よういちろう)

1944年、大阪府生まれ。神戸大学経営学部卒業後、松下電器(現パナソニック)入社。経営企画室長、eネット事業本部長、取締役を経て2005年退職。高知工科大学大学院起業家コースで学位取得。博士(学術)。関西外国語大学国際言語学部教授を経て現在、大阪商業大学大学院特別教授。流通科学大学講師も兼務。

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