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出口治明流、教養が身につく「本の読み方」

出口治明(立命館アジア太平洋大学学長)

2018年06月02日 公開 2024年12月16日 更新


 

教養が身につく最強の読書

学生時代に、恩師から次のように教わりました。「古典を読んで分からなければ、自分がアホやと思いなさい。現代に生きている人が書いた本を読んで分からなければ、著者がアホやと思いなさい。読むだけ時間の無駄です」と。

なぜ、古典が難しいか。それは著作の動機、著者の意図が生じたそもそもの時代背景や社会状況が大きく異なるということに加えて、言葉の意味自体も異なるからです。例えば、サクラと聞けば、私たちは淡紅色のソメイヨシノを連想します。しかし、ソメイヨシノは江戸時代の末期に生み出されたごく新しい品種です。『万葉集』や『古今和歌集』に歌われたサクラは、恐らくヤマザクラです。

これに比べれば、時代背景や社会状況、言葉の意味を同じくする同時代人の書いたものは原則として分かって当然。分からないものは、著者自身が題材をよく消化していないからということになります。そんなものを読むのは、時間の無駄以外の何物でもない。まことに恩師の炯眼の通りです。

私はどんな本でも最初の10ページぐらいをきちんと読んで、そこで面白くなければその本は捨てます。面白ければ一字一句、腹落ちするまで精読します。オールオアナッシングです。読むか読まないかの基準は、「面白いかどうか」がすべて。途中で分からなくなれば数ページ戻って読み直します。

このように1冊を完全に消化してしまうので、大方の本はまず再読することはありません。再読は、ごく限られた偏愛している本(例えば、『ハドリアヌス帝の回想』=白水社)か、読んでから長い時間を経たというケースがほとんどです。

私は、昔から書物に対するフェティシズムがあるので、手を洗ってから本を読みます。本を読むという行為は著者と真剣に対話をすることだと思っているので、ほとんどの場合は椅子に座り机に向かって本を読んでいます。そういえばマキアヴェッリは衣冠束帯して『君主論』を執筆したとか。その気持ちはとてもよく分かります。私は人の話を聴く場合でも原則としてメモは取らず、集中力を高めて頭の中に取り込むタイプなので、本に線を引いたり書き込みをしたりすることは全くありません。

大嫌いな言葉は「速読」です。本に書いてある内容をすぐに知りたければ、パソコンで検索すればいいのです。その方がはるかに早い。第一、人と話をしていて、速読されて喜ぶ人がいるでしょうか。速読は、世界遺産の前で記念写真を撮っては15分で次に向かう弾丸ツアーのようなものです。行ったことがあるという記憶は写真を見れば蘇るでしょうが、そこで何を観たかは少しも頭に残ってはいないでしょう。資格を取るための受験勉強などを除いて、速読ほど有害無益なものはない、と考えています。

人の話も本も、集中力を高め相手と対峙して初めて身につくものです。本をしっかりと読み込むためには、まず体力が必要です。疲れている時に本は読めません。

なお、人間が社会で生きていくために最も必要とされる自分の頭で考える能力、すなわち思考力を高めるためには、優れた古典を丁寧に読み込んで、著者の思考のプロセスを追体験することが一番の早道だと思っています。以上が、私の本の読み方です。
 

※本記事は、出口治明著『教養が身につく最強の読書』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。

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