<<争いの絶えなかったイタリア半島に奇跡的にもたらされた40年間の平和「ローディの和」。世界の外交史に燦然と輝く出来事であるとともに、世界的な必須教養です。
歴史への造詣が深い立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明氏が、自著『知略を養う 戦争と外交の世界史』(かんき出版刊)にて、この「ローディの和」の事例を紹介しています。ここではその一節を紹介します。>>
※『知略を養う 戦争と外交の世界史』(かんき出版)より一部を抜粋編集したものです。
イタリア半島の危機に奔走した一人の男
756年のピピンの寄進(教皇領の成立)以来、1861年にイタリア王国が成立するまで、分裂と抗争の時代が長く続いたイタリア半島において、ほとんど波風の立たない奇跡的な40年間をつくった五ヵ国の同盟として歴史に名前を残しているのが「ローディの和」です。
アナトリア半島の西部にムスリム・トルコ系戦士集団(トゥルクマーン)として登場したオスマン朝によってローマ帝国が完全に滅亡した際、とりわけバルカン半島とアドリア海を隔てて隣接しているイタリア半島は、いつ攻めてこられるかわからないという恐怖に襲われました。
またヴェネツィアを始めとするイタリア半島の海の共和国は、クリミア半島とコンスタンティノープル、そして地中海に至る公易ルートの制海権を巡っていつも争っていました。
クリミア半島が、中国と西方を結ぶ陸の交易ルートである草原の道の、西側の一つの終着点となっていたからです。そのルートを、オスマン朝に奪われたことは重大でした。
この当時のイタリア半島には、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、ローマ教皇領、ナポリ王国という五つの大国がありました。中でも、オスマン朝に対して深い危機感を抱いたのは、フィレンツェ共和国を領導していたメディチ家のコジモです。
メディチ家はフィレンツェの銀行家であり貿易商社をも兼ねる有力家門でした。自身もフィレンツェの政治家でもあったコジモは、自分の息がかかった政治家たちを共和国政府に送り込み、フィレンツェの政治を取り仕切ります。
彼は市民たちにイル・ヴェッキオ(老人)と呼ばれて尊敬され、フィレンツェに多くの芸術家を招いて、イタリア・ルネサンスへの道を開いた功労者です。
コジモはオスマン朝の進出を半島全体の危機と捉え、北イタリアのミラノ公国を訪れてミラノ公フランチェスコ・スフォルツァと面談し、「いまイタリアの五大国がお互い同士トラブルを起こしていると、それはオスマン朝がイタリアに介入する絶好の口実になる。
それゆえ、五大国が争いを起こさぬと誓い合うことが必要である」と、熱く説きました。
フランチェスコは、北イタリアの都市国家ミラノを公国の地位にまで押し上げたヴィスコンティ家を倒して、ミラノ公となった男です。傭兵隊長の出身です。
フィレンツェの政治思想家マキャヴェッリが、その著書『君主論』で、フランチェスコの施政をたびたび取り上げているように、すぐれた政治家であり有力な武人でした。
ミラノ公フランチェスコは、1400年代の前半にヴェネツィアと戦っています。そのときフィレンツェはヴェネツィアと同盟関係にありました。
この戦いはフィレンツェとヴェネツィアの勝利で終わり、停戦となっています。コジモはこの頃にフランチェスコと面識があったようで、お互いの見識と力量を認め合う間柄でした。
コジモは、ミラノ公国がヴェネツィアと停戦しているにしても、必ずしも両者の間が円満ではないことを見抜いていたようで、五大国の平和について、まずミラノと話したのだろうと推察されます。
フランチェスコは、コジモの話に全面的な協力を約束しました。次いでコジモはヴェネツィア共和国のドージェ(元首)、フランチェスコ・フォスカリと会いました。彼はミラノと対戦した時のドージェでもありコジモの話に理解を示しました。