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澶淵の盟 中国史に平和をもたらした宋代のODA

出口治明(立命館アジア太平洋大学学長)

2018年10月29日 公開 2024年12月16日 更新

<<中国の歴史は、農耕民と遊牧民の対立の歴史とも言えます。しかしながら、この両勢力が戦争を回避し同盟を結び、平和の時代を築いた時期もあったのです。ここに注目すべき外交政策がありました。

それが中国の宋時代の「澶淵の盟(せんえんのめい)」です。当時は卑屈だと蔑まれたものの、現代に至りこの政策は「現代のODA(政府開発援助)」と評価を高めました。

立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明氏が著書『『知略を養う 戦争と外交の世界史』(かんき出版刊)にて、この澶淵の盟を取り上げています。その一節を紹介します。>>
 

120年余りの平和を維持した同盟条約

現在の中華人民共和国は漢民族が中心となって建設した国家です。漢民族は中国の人口の90パーセントを占めています。しかし中国の歴史を振り返ると、この国は農耕民と遊牧民が、入れ替り立ち替り支配してきたことに気づきます。

「澶淵の盟」は、このように複雑に絡み合う農耕民と遊牧民の対立の中で、11世紀の初頭に中国を治めていた農耕民の王朝である宋と、モンゴル高原を支配していた遊牧民の王朝キタイとの間で結ばれた同盟でした。

戦争を回避して経済力で平和を実現させたこの同盟は、後世の中国の王朝からは必ずしも高い評価を得ませんでした。今回は、この澶淵の盟についてお話ししましょう。

宋の三代目真宗は父の太宗や叔父の太祖とは異なり、凡庸な君主でした。度量も狭く臆病でした。

彼は、キタイの皇帝である聖宗が大軍を率いて南下した情報に動揺します。NO.2の家臣であった王欽若(おうきんじゃく)は長江の南側の出身です。彼は臆病風に吹かれている真宗に、自分の支配圏である長江の南へ逃げましょうと進言します。

その気になってしまいそうな真宗を、家臣のNO.1で宰相の地位にあった寇準(こうじゅん)が強く諫めました。彼は気骨ある男でした。

「わが国とキタイとでは、軍事力は互角です。経済力は我々が圧倒的に優ります。ここは堂々と誇りを持って、キタイに立ち向かうべきです」

そして逃げ腰の真宗のお尻を叩くと、黄河河畔の地、澶州(せんしゅう)まで出陣させました。こうして二人の皇帝が親征し、対峙しました。合せて数十万を超える大軍です。

このとき、キタイの聖宗と宋の宰相である寇準は、この大軍がもし激突したら共倒れになるだけだと、すぐに察知したことでしょう。そして和平交渉に入り、結ばれた和約が澶淵の盟(せんえんのめい)でした。なお澶淵とは澶州の雅号です。

●宋が兄となりキタイが弟となる
●両国の国境は現状を維持する
●宋はキタイに毎年絹20万疋(ひき)と銀10万両を贈る(1疋は布地4丈、約12.29m、1両は37.3g)

こうして結ばれた澶淵の盟は、忠実に守られて、キタイが滅びるまで約120年余りの平和が維持されました。当時の絹は通貨でもありました。

後晋の石敬瑭(せきけいとう)がキタイに贈っていた絹が30万疋でした。宋は絹20万疋と銀10万両ですから、合計は30万です。キタイとの平和条約に対する一貫した価値付けが行われているようにも思えます。

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当時、澶淵の盟は評価されなかった

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