本来の事業部制に
幸之助は1975年度の経営方針発表会において、「業績不振がこのまま続くと、25年ぶりの赤字になる。赤字は真剣勝負で負けたことと同じ」と発言し、特に事業部長に対して、「意思決定を1日遅らせたら、それだけ仕事が遅れる。そういう自覚をしてもらわんといかん」と訴えた。「1日の遅れが1年の遅れを生む」というのが、従来からの幸之助の考え方である。
当時の松下電器には60を超える事業部があった。事業部制を採用する狙いの1つは、巨大な組織を製品別に分けて独立した経営体にすることで、組織の肥大化ひいては硬直化を防ぎ、迅速な意思決定や柔軟な運営を持続的に可能にすることだ。
ところが、製品の種類増大とともに事業部の数があまりに多くなると、事業部間での調整が錯綜し、かえって意思決定の妨げになることもある。実際、事業部の数が増えすぎて、セクショナリズムの弊害が目立ち始めていたという。
こうした弊害に対処しようと、松下電器は総括事業本部制を採用する。各事業部は、電化機器、無線機器、産業機器に大別された総括事業本部のもとに配置され、3人の副社長がそれぞれ総括事業本部長を務めることになった。その目的は、「組織の機動的で迅速な運営を図ること」にあり、幸之助がまさに求めていたことである。
業績不振に陥ると、大きく組織を変えたくなるのが経営者の常である。しかしそこに明確な理念や目的がなければ、組織をいじっても効果はあがらない。
松下電器は1972年、逆に17の製造事業本部制を廃止したことがある。幸之助が当時、各事業部が本部の管轄下にあるため、自主責任経営の意識が弱まり、利益率の低下がみられるようになったと指摘したことが大きい。
本部制を新設したり廃止したりと、一見、方針が一貫していないように思われるが、そうではない。幸之助にとって肝心なことは、各事業部の経営が活性化することだ。本部を置くかどうかは、あくまでそのための手段である。
「昭和40年不況」に直面した1964年、幸之助が営業本部長代行として販売制度改革の陣頭指揮をとった時も、卸同士の過当競争を防ぐため一地区一販売会社制にしたことに加えて、事業部制のあり方を見直している。
従来は、商品の流通が「松下電器の事業部→営業所→販売会社(卸売り)→販売店(小売り)」となっていた。事業部と販売会社との間に営業所が介在していたのである。そのため、事業部は製造した商品の販売を営業所に委ね、販売会社は、幸之助の言葉を借りれば、松下電器から卸した商品を小売りに回すだけの「単なる配給所」と化してしまった。
そこで幸之助は、事業部と販売会社との直取引に改め、流通を「事業部→販売会社→販売店」に簡素化した。すると、事業部は営業に、販売会社は仕入れに力を入れるようになる。結果、各事業部が自主独立の精神で経営をする姿が戻ってきた。組織を見直すやり方は多様だが、事業部経営の活性化という目的は一貫していることがわかるだろう。
業績回復、予想より早く
オイルショック後の不況克服では、そのほかにも手が打たれた。1つには地区担当者の増強。その任務は、全国各地区の販売会社や販売店の経営に対して側面支援をするとともに、市場の状況や、販売現場における要望、苦情などを社に伝えることである。一時的な販売支援ではなく、共存共栄の精神のもと、松下電器と販売会社・販売店との信頼関係を深め、販売体制を強化するのが主目的だ。地区担当者を置くことは元々、先述した販売制度改革後に幸之助が発案したものだという。
もう1つは管理職の昇給停止。驚くべきことに、管理職側から自発的に申し出たという。背景に、不況に対する管理職の認識の甘さを指摘する声が経営陣からあがったらしいが、「狂乱物価」といわれるほど激しいインフレが続く中での昇給停止は、管理職としての責任を強く示すものであった。
これら一連の不況対策を打つことで、松下電器の経営状況は大方の予想よりも比較的早く回復する。1975年4月から「半ドン」の緩和が一部の事業場で始まり、10月までにすべて終了した。
先述したように、当初の回復の主因はカラーテレビの輸出増にあり、松下電器に限らず家電業界全体の回復が他業界に比して早かったのは事実だ。ただ、当時の松下電器は、家電大手他社よりも輸出依存度が低いにもかかわらず、持続的な業績の回復をみせ、国内販売の力強さが際立つ結果となる。
根底に理念の浸透
こうして当時を振り返ってみると、松下電器は斬新な不況対策をとるまでもなく、おおよそ従来の幸之助流の手法、まさに「復活の方程式」により、難局を切り抜けたと考えられる。ただし注目すべきは、手法よりも、そうした手法の背景にある理念や考え方だ。
第1に、人を大事にすることが前提とされている。一時帰休や賃金削減に走らず、半日勤務・賃金全額支給により生産調整を行なうことで、社員を生活不安に陥れたり、路頭に迷わせたりするようなことはしなかった。
第2に、職種を問わず商売の精神が重んじられている。技術や製造の社員も、販売の支援業務に活躍した。日頃から、販売の仕事に携わらない社員も含めて「全員が一商売人」という理念が浸透しているからだ。
松下電器の販売支援を他社がマネしても、必ずしもうまくいかなかったのは、そんな商売の精神が全社的に浸透していないからである。実際、当時計1万人にも上ったという各社の販売店への派遣社員が、自社製品を売らんがために他社製品への小細工や強引な客引きをして、社会問題になっていた。
松下電器の場合、すでに強力な系列販売網を擁する一方、訪問販売活動などを通して得意先との信頼関係強化に努めた。また、先述した地区担当者の活動などにより、販売店の要望や苦情に耳を傾けた。販売経験の乏しかった社員も、幸之助の商売に対する考え方を心得ていたからだ。そのような伝統もなしに、余剰人員をかたちだけ販売支援に回したところで効果はあがらないのである。
第3に、不況対策がスムーズに進んだ背景に、労使の協調がある。例えば、社員の販売支援に消極的な他社労組とは対照的に、松下電器労組は会社側の要請以上に協力的だった。この点について、イギリスのガーディアン紙やアメリカのニューズウィーク誌までが驚きをもって報じている。
当時の同労組委員長の高畑敬一氏は、労組の自発的な販売支援や地域奉仕活動を取り上げた雑誌の取材に対し、「組合が経営者と対等の立場に立つのは当然の理屈だが、体制批判を軸とする賃金闘争の時代は終わった」と述べている。労組とは「対立しつつ調和する」という幸之助の考え方が、労使が一致団結して不況克服に挑むという姿に表れたのだ。
最後に、奇策に走らず、本業の立て直しに徹したことだ。幸之助は「昭和四十年不況」の頃から、大企業を中心に広まる事業の多角化に懐疑的だった。多角化は一見、複数の異なる事業を手がけることで経営上のリスクを軽減する利点があるように思われる。しかし幸之助は、多角化によって一企業の経営力が分散して弱まり、かえってリスクのほうが高くなるとみていた。実際に多角化の旗手と持て囃された企業が、不動産事業の失敗と借金経営により倒産する例もあった。対照的に、家電製品の製造販売を専業とし、適正経営を実践した松下電器は、業績の回復をみた。
幸之助の好んだ言葉に「治に居て乱を忘れず」というのがある。第一次オイルショック後の不況下、松下電器の経営に大きなブレがみられなかったのは、日頃からこうした理念や考え方が組織に浸透していたからだ。これこそ、幸之助流の「復活の方程式」が成立する必要条件だといえよう。