第1次オイルショック後の不況で経営危機に直面した松下電器(現パナソニック)は、幸之助流の手法で難局を切り抜けた。その背景にあった考え方とは?
「方程式」はあったのか
松下電器は不況に強い企業といわれた。戦前の昭和恐慌や、東京オリンピック景気の反動で大型倒産の相次いだ「昭和40年不況」などの難局に直面して、経営不振に陥っても、見事に復活を遂げてきたのである。
こうした復活は、その都度、創業経営者である松下幸之助の個人的手腕によるところが大きかったことは否定できない。ただその一方で、幸之助の薫陶を受けた幹部社員が、経営の経験を重ねるうち、難局への対処法をおのずと習得していったという面もある。もし松下電器に「復活の方程式」のようなものがあるとするなら、幸之助が経営の一線から退いたあとも、時代を超えてみられるはずだ。
そこで本稿では、幸之助が相談役に退いてから松下電器が初めて直面した危機、すなわち第一次オイルショック後の不況に焦点を当ててみたい。むろん当時も相談役とはいえ、幸之助の経営に対する影響力が大きかったことは否めないが、本人が前面に出て指揮をとることはなかった。そうした場合に経営陣はどのような不況対策を推進したのか、そこには幸之助から受け継がれた方程式があったのか、考察してみよう。
「一時帰休」を実施せず
家電業界は1974年から75年にかけて、石油価格高騰と金融緩和による「狂乱物価(ハイパーインフレ)→実質所得の減少→個人消費の大幅な冷え込み」で、大打撃を受けた。松下電器の業績も、74年度は対前年度比で増収減益、75年度は10年ぶり(「昭和40年不況」以来)の減収減益という厳しい結果となった。
ただ、75年度中には業績悪化が止まり、翌76年度は大幅な増収増益と、不況克服に成功する。同業他社の業績も回復したが、輸出頼みの面があり、77年には貿易摩擦に直面して苦しむ企業も出てきた。その中で松下電器の持続的回復は注目に値する。
松下はどんな不況対策を講じたのか。まず74年前半、一部の事業場で生産調整を始める。これはどの会社でもやることだ。注目すべきはその後の追加対策である。
さらに景気が悪化して9月になると、同業大手の日立や東芝が大規模な従業員の一時帰休を始める。他業界ではすでに実施されていたことなので、当時はやむをえない処置とみられていた。
だが、松下電器は追随しなかった。10月、若手社員1800人を出身県の販売店に派遣することを労働組合に申し入れる。労組はあっさり承諾した。他社の一時帰休に比べればはるかにマシだからだ。一方、労組から「販売の効果を高めるには管理職の派遣も必要だ」との要望が出され、会社は部課長等160人の派遣に応じる。
それでも、年末商戦は不調に終わった。年が明けて75年1月10日、当時の松下正治社長が経営方針発表会後の記者会見で、「さらに管理職600人ほどを販売会社の支援に出す」と発言。同日、ライバルのソニーが、臨時工を含む従業員の半数を一時帰休にするという方針が明らかになる中、松下電器は人員の配置を販売にシフトすることで、社員の雇用と賃金を守り抜く姿勢を鮮明にする。
とはいえ、一部の社員を販売支援に回したところで、余剰人員はなかなか減らない。こうした現実を前に、当時の労務担当役員が、当面の間、休みを一日増やして週休3日にするのも一つの案だと思い、幸之助に意見を求めた。実際、「昭和40年不況」時の1965年、他社に先駆けて週休2日制を導入したことがある。
しかし幸之助の答えは「ノー」。「若手社員の将来を考えて」という理由だった。そもそも週休2日制は、不況対策のために導入されたのではない。経済の国際化を見据えて欧米企業並みに生産性を上げようと、幸之助が導入の5年前から決めていたことである。
ただその当時の幸之助には、休みを2日に増やすと、若者が遊びほうけてしまうのではないかという懸念があった。だから「一日教養、一日休養」というスローガンを掲げ、休日の2日とも無為に過ごすことを戒めたのである。しかし現実には、休日をレジャーに費やすことが国民の間で定着していく。さらに休みが増えれば、遊びで堕落する若者が増えると幸之助は考えたのだ。
「半日勤務にして、賃金を全額支払えばよい。そのために資金を蓄積しているのだから」。これが幸之助の回答である。
「半ドン」で全額支給
経営方針発表会からおよそ1週間後の1月18日、新聞各紙に「松下電器が半ドン制 今月末から連日 給料は全額支給」(朝日)、「松下は連日半ドン 一部工場で月末から」(読売)――という見出しが躍った。「半ドン」とは、半日勤務のことである。土曜午前の勤務のなくなった完全週休2日制が一般化してから死語になりつつあるが、1980年代までは広く用いられた。
この「半ドン」、他社にはみられない不況対策だった。「新戦術」「斬新なアイデア」などと記事に書かれている。しかし、昭和恐慌時の1929年12月に幸之助の発案で始めた松下電器の不況対策と、基本的には同じものだ。
29年当時と異なる点を挙げれば、まず労働組合の存在である。会社側の一存で即「半ドン」を実施するわけにはいかない。ただ、労働時間が減るのに賃金は変わらないのだから、労組が反対するはずもなかった。それどころか「午後を休むのではなく、販売促進に役立てることはできないか検討する」という協力姿勢さえみせている。そのため、「半ドン」は労組側の提案ではないかとみる向きすらあった。
第2に、店員と工員の区別がないことだ。29年当時に半日勤務が指示されたのは、工場で働く工員である。一方の店員は休日返上で販売に注力した。しかしこうした区別がなくなっても、多くの工場勤務社員が販売支援に回っているのだから、29年当時と大きな相違はないといえよう。
顕著な違いがあるとすれば、企業規模である。大阪の町工場から世界的大企業に成長した。半日勤務で賃金を全額支給するコストが、一部の事業場が対象とはいえ、比べものにならないほどふくらんだ。ところが、「そのために資金を蓄積しているのだから」と幸之助が発言したように、ダム経営、つまり借金せず、資金のダムをつくる経営が奏功したのである。