「臓器摘出は道徳的に正当化できるか?」イェール大学哲学教授からの問い
2019年04月26日 公開
<<アメリカの名門イェール大学で際立って人気を集めている教授がいる。それがシェリー・ケーガン氏。その講義テーマは「死」。
死とは何か、人は死ぬとどうなるのか、死ぬと孤独になるのかーー。生者が「死」を考察することで、今ある「生」のあり方を考えさせるその授業は、受講希望者が後を絶たない。
その人気講義をまとめた著書「DEATH」の日本向け縮約版である『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』より、世界最高峰の授業の一端をここで紹介する。
※本稿はシェリー・ケーガン著『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』(文響社刊、柴田裕之訳)より一部抜粋・編集したものです。
「ドナー」と「殺人」の不確かで確かな境界線
心臓移植を必要としている人がいると想像してほしい。
組織適合性検査の結果、私は臓器提供者(ドナー)としてふさわしいことがわかった。そこで今度は、私の身体から心臓を摘出するのが道徳的に許されるかどうかを知る必要が出てきた。
もちろん通常のケースでは、誰かの身体から心臓を摘出するのが道徳的に許されるかどうか考えるときには、「ドナーの候補はまだ生きているか?」さえ問えば良い。
なにしろその人は、もし生きていて心臓を摘出されれば、死んでしまう。摘出した人は、その人を殺したことになる。
そして、そのような行為が道徳的に禁じられていることは言うまでもない。人には生きる権利があり、それには当然、(数ある権利のうちでもとくに)殺されない権利も含まれるように思える。
だが、異常なケースについて考えると、じつは事はそれほど単純ではないのがわかる。たとえば、仮に人格説を受け容れたとしよう。
すると、下図のように、D段階については、私はもう生きてはいないが、私の身体は生きていると言うのが正しいらしい。
※身体機能を「B機能(ボディ機能)」と呼び、高次のさまざまな認知機能を「P機能(パーソン機能)」と呼ぶ
そして、もちろんこれは、搏動している心臓をたとえみなさんが私の身体から摘出したとしても、みなさんはじつは私を殺しはしないことを意味する。
なにしろ、私はもう死んでいるのだから。みなさんは私の身体を殺すだけだ。それも道徳的に許されないかどうかは、判断が難しい。
私たちのほとんどは、生きている身体から搏動している心臓を摘出することには(控えめに言っても)不快感を覚えるだろう。もくろむだけでも、おぞましいほど不道徳に思える。
だが、それはこの問題を入念に考え抜いていないために、混乱しているだけのことかもしれない。