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生き方

「臓器摘出は道徳的に正当化できるか?」イェール大学哲学教授からの問い

シェリー・ケーガン(イェール大学哲学教授) 柴田裕之 (翻訳)

2019年04月26日 公開

 

殺されない権利を持っているのは誰か?

ここで決めなくてはならないのはおそらく、殺されない権利を持っているのは誰、あるいは何なのかだろう。

生存権を持っているのは私なのか、それとも私の身体なのか(あるいは、ひょっとすると、そのような権利は二つあり、一方は私が、もう一方は私の身体が持っているのか)? 

もし私の身体が生存権を持っているとしたら、私がすでに死んでいるときにさえ、心臓を摘出するのは現に不道徳だ! だが、生存権を持っているのは私だけなら、つまり、身体ではなく人格を持った人間がその権利の持ち主だとしたら、みなさんが私の心臓を摘出するのは、おそらく許されるだろう(念のため、私の家族の同意を得ておいたほうが良いかもしれない)。

その結果私の身体が死ぬことになったとしてさえ。そうしたところで、私の生存権は実際にはまったく侵害されないからだ。

たしかに、人格説を受け容れても道徳性にまつわる疑問は解決しない(解決しようとしたら、道徳哲学の長たらしい議論を始めなくてはならなってしまう)が、以下のようなことがわかって、目を見張らされる。

すなわち、人格説を受け容れれば、「身体を殺すのは、それによって人格を持った人間を実際に殺したりしない限り許される」と主張することへの扉が開かれるのだ。

それでは、人格説ではなく身体説を受け容れたらどうなるのか? 身体説によれば、もちろん私はD段階でも依然として生きているという。

だから、心臓を摘出すれば私の身体を殺し、それによって私を殺すことになるため、心臓を摘出するのは明らかに間違っていると思えるかもしれない。私の搏動する心臓を摘出するのは、私の生存権を侵害することであるはずで、したがってそれは道徳的に禁じられている、と。

だがここでさえも、事はそれほど単純ではない。すでに見たとおり、生きているというのは、それほどたいしたことではない。

肝心なものを手に入れられるかどうかという観点に立てば、重要な問いは、私が生きているかどうかではなく、私は人格を持った人間かどうか、だ。そして、D段階では、私は依然として生きてはいるものの、もう人格を持った人間ではない。

それならばいわゆる「生存」権はいくぶん紛らわしい命名だと、最終的には思えるようになるかもしれない。ことによれば、私は殺されない権利を持っているのではなく、「非人格化されない」権利、つまり、自分の人格を消滅させられない権利を持っているのかもしれない。

それが本当の権利ならば、ここでも、私の人格がすでに消滅しているのなら、私の心臓を摘出することには、何ら受け容れられない点はないことになる。

たしかに通常のケースでは、誰かを殺せば現にその人の人格は消滅するから、殺すことは許し難い。だが、私は依然として生きているものの、もう人格を持った人間ではないという異常なケースでは、私を殺すことはけっきょく道徳的に正当化できるかもしれない。

これらはみな、重要で難しい疑問であることを理解してもらえていればと願っている。

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